『三年目の作家、として』
六月二十五日、金
(第一、語の意味が成立する可能性とその効果について。
まず、語は意味を表し得るだろうか、と問うてみる。だが、それを述べる事自体、既に意味が成立することの証明になっている。より強く言えば、この語を私が書き、あなたはただこの語のみによって理解しているのだから、語の意味は成立していなければならない。
だが同時に、私たちはそのものが語であるということは理解できても、その語が何を意味するかを理解できないことがある。意味を知らないものを語と認識するとはどういうことか。
それは、私たちが意味を知っている語からの表象上の類推に他ならない。
では、その表象上の記号から意味を理解することは、どのようにして可能になったのであろうか。
それは連合、言い換えれば条件付け、例を挙げればパブロフの犬のような条件付けによってである。
人の言語は音から始まる。ある物を見たときにある音を聞き、それが度重なると、そのものを意識することがすぐにその音を呼び起こすような連合が起こる。
そして次に、その音と同じものを表す記号とを連合させ、ついに、記号とそのものとは観念の中で結合する。つまり、観念が記号を呼び、記号が観念を呼ぶようになる。
そしてそれが物体にだけではなく、動作や状態、感情、思想にまで達し、細分化し、より正確に伝達し、受け取ることが可能になるのである。そして更に、その語同士を自由に結合することが可能になれば、現実にはあり得ない、またあり得なかったものを生み出すことが可能になるのである。
ただ、ここで不可解なのは、私たちが意味を記号から直接受け取るのではなく、一旦音に換えてから受け取っているということである。そして思考も、音によって行われているということである。これは何を意味するか。
私が思うに、それは頭の中でそれが意味する像を描くこととその現実の記号を視覚的に知覚することとは、同時に行い得ないからではないであろうか。
試しに、次の言語を意識して見ながらそれが意味するものをイメージできるか、やってみて欲しい。
「星空」
次に、それを音に変換して、その音を意識しながらイメージできるか試して欲しい。どうであろうか。結果は明白ではないであろうか。
では、ここから何を導き出すことができるか。
それは、私たちの脳内で、映像を想像する部分と現実の映像を知覚する部分とは、恐らく同一の部分であるということである。
つまり、私たちが情景を表す文を見ながら同時にその情景を想像することはできないということになり、であるから、読み急がせる文章は、想像させる空間が狭くなる、または粗くなる、と言うことができるのである。
より簡潔に言えば、時間と空間とは反比例するのである)
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