『三年目の作家、として』
七月七日、火
(第三、表記法や語尾の効果について。
語は同じ意味を違う表記で表すことができる。例えば自分を指す語を「私」にも「俺」にも「僕」にもできる。これらは一見で、その指された者の性格などを受け手の中に形成する。当然のようだが重要である。
そしてまた、同じ語でも平仮名と片仮名と漢字では、受ける印象が大きく違う。つまりこれも、その語を使用した登場人物なり作者なりの人格を形成するのに影響を及ぼす。
では具体的にどう違うか。試してみる。
「馬鹿野郎!」
「ばかやろう!」
「バカヤロウ!」
印象として、漢字は堅く、真剣で、冷たい。平仮名は柔らかく、真剣で、暖かい。片仮名は堅く、軽薄で、暖かい。
更にこの言葉を次のように書けば、より軽薄な感じが出る。
「バカヤロー!」
次に、外来語と比較してみる。
「性交」
「セックス」
印象として、外来語はどこか軽薄で、他人事のようですらある。片仮名以上に効果が望めそうである。
そう言えば、これは外来語ではないが、最近耳にする「ボコる」「ラチる」などもこの類いではないであろうか。指されたものが深刻でも、このような言葉に置き換えることによって自分たちの行為をどこか遊びのように感じるのである。
これに限らず、同じ意味を指す語が時代と共に変わる、つまりその世代特有の言葉がある、或いは、人それぞれに言葉の選び方や使い方が違うのは、語の印象と個人の思考形態との合致という点から見て、ごく自然のことであろう。
さて、私は時々、難解な語について「どうしてわざわざ難しく書くんだ」と言う人を目にする。もっともである。だが、そうでない部分もある。そのことについて考察する。
確かに、分かり易い語で表せるものを難しい語で表す必要はない。だが、分かり易い語というのは往々にして様々な意味に取れ、正確に伝達するのが難しいという面を持っている。
例えば「分かる」という言葉一つをとっても、すぐに思い付くだけでも「分析できる」という意味と「認識できる」という意味と「知識として持っている」という意味の、三つの意味を持っている。この三つの意味の相違は、厳密さを求める文にとって致命的である。
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