LOGOS for web

三年目の作家、として
 そしてまた、文を厳密かつ平易にしようとすればするほど、その語数は多量のものとなり、全体で表される意味を把握し辛くするのである。例えば
「ロゴス中心主義とは、表音的文字言語の形而上学である」
 を平易にするとこうなる。
「言葉が本当に説明しているもの、言葉で考えるときの決まりを守っているもの、または言葉が本当に語っている中身、を何よりも大切にしていくこと、とは、例えばアルファベットのような、それ自身は意味を持たないただの記号の並べ換えでしかない物、が、どうしてある意味を表すことができるのかを考えることで、それはほとんど意味のないこと、だ」
 そう。明らかにこれは現実的ではない。
 つまり、語の厳密さを必要とすればするほど、文章は「必然的に」難解にならざるを得ないのである。そしてそれを平易にする必要も、あまりないのではないであろうか。
 何故なら、この手の文を必要とする人々は、難解な語であろうと自ら進んで辞書などを調べ、語と意味とを直接に結合させていくであろうし、必要としない人々は、いくら平易に書いたところで読み切ることすらほとんどないであろうから。
 つまり、不必要な人のために必要な人が無駄な文字数を読まなければならないことになり、それはまるで誰もが着いて行けるように取り計われた退屈な授業のようなものである。クラス分けをするしかない。
 どうであろうか。
 さて本題に戻ろう。語尾についてである。
 語尾、つまり語の活用には、過去形、現在形、未来形があり、更にそれらに組み合わせて継続形、終止形がある。その他に、敬語、伝聞、推量、断定、可能、否定、などの活用形がある。
 この中で私が考えたいのは、現在形と過去形との効果の違いである。試してみる。
「ナナが肩を震わせる」
「ナナが肩を震わせた」
「肩を震わせるナナ」
「肩を震わせたナナ」
 現在形は密接で、流動的で、同じ状態を引き摺る感じを受ける。過去形は距離があり、安定的で、置いてくる感じを受ける。
 ここから以下のようには言えないであろうか。過去形は回想や伝聞などに用いられる、非主体的で理性的な形態であり、対して現在形は主体的に感受し、経験していくまさにそのものであり、感覚的な形態である、と。ここで非主体的とは、瞬間毎に分割される区分における今の自己と過去の自己との違いをも含む。
 それは読み手と文との間に書き手を存在させるものではないであろうか。敬語、主に丁寧語、においてそれはより顕著であろう。何しろ読み手に敬意を払うことによって自らの存在を誇示するのだから。


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