『三年目の作家、として』
七月二十日、月
(第五、文と文との繋がりの可能性、或いは広げて段落、節、章、同士の繋がりの可能性、つまり、文章の成立の可能性とその効果について。
まず、こう問うてみる。ある一文と、他の文とは繋がることが可能なのか。
可能である事は間違いない。事実、私たちは繋がりを感じているのであるから。と言うことは、ある一文とある一文との繋がりが成立するのであるから、その二つ以上の文は何かを共有していなければならない。では、何を共有しているのか。
それは世界である。ある一文が形成した世界を、他の文も共有することによって文同士は繋がり得るのである。決して「それは」「何故なら」「では」などの接続詞によって可能になるのではない。接続詞の後に、その前の文と世界を全く共有しない文を繋ぐことが可能である事がそれを示している。
では、世界をどのように共有するのか。
それは、ある一文と他の文とが、大きな一つの世界の枠の中に留まり、しかもその世界を展開していくことによって、である。
展開と言うのは、無、或いは無限の有の状態から世界を徐々に限定していく過程であり、境界線の設定である。
例えば、この上十行ほどの文は、冒頭に掲げられた「第五、文と文との〜」という問題の解決に向けた回答の可能性を限定する、言い換えれば誤った結論を除去するという展開において統一を形成している。また、唯則とナナの部分においては、同一の登場人物が同一の世界に留まって活動し、その活動によって世界を展開することにおいて統一を形成している。
そして、展開が進めば進むほど、つまり文量が増えれば増えるほど世界は明確になるが、同時にそれは、次に続く文の可能性を狭めて行く。言い換えれば、文は世界を形成し、同時に、その形成された世界に縛られて行く。
それは、作者自身においても言える。作者の作文方法が、或いは作者の選好する世界が明確になればなるほど、そこから産み出される文章の自由度は減少する。
しかし、それらは欠点ではなく、むしろ目的である。問題であれば回答であり、小説であればクライマックスである。
段落や節や章においても同じように言える。ただ、最近流行している、章毎に視点、つまり主人公を変えるという手法が例外に思われるかもしれないが、それは全体として一つの世界を形成しているのであり、例外にはならない。
付け足すが、文とは複数の語が集まって一つの意味を形成するものであり、段落とは複数の文が集まって一つの意味を形成するものであり、節は……以下続く。それぞれはこのような意味単位である。
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