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完結した夏
 2(遠)

 それは俺が七歳、小学二年の夏休みだった。俺は母に手を引かれ、夏の日差し照りつける古びたアスファルトの道を歩いていた。
 空気が揺らめく暑さだった。
 道端には夏草がうっそうと生い茂り、三面コンクリートの川面はまばゆく揺らめいていた。川の側面にうじゃうじゃと貼りついたタニシの貝殻は、どれもしっとりと濡れていた。
「水面(みなも)」頭上で母の声がした。
 野球帽のツバを上げると、手を引く母の腕がうっすらと汗ばんでいた。その手首で揺れるブレスレットは汗のために白く曇っていた。
「これからおじゃまするお家はね、藤館智子(ふじしろともこ)さんっていう、ママの学生時代のお友達なのよ」
 ヒマワリ柄の黄色いワンピース。ツバの大きな白い帽子。真っ赤な口紅を引いた唇。くっきりと描かれた眉。まつ毛の一本々々まで分かるマスカラ。
「懐かしいわあ……ママと智子はね、学生時代、二人ともパパのことが好きになってね……」真っ赤な唇が笑みを噛み殺すように歪んだ。
「ママ……おばけ……みたい……」
 その時、すぐ目の前を、物凄いスピードで車が横切った。母のワンピースの裾がはためいた。母は瞬時に帽子を押さえた。俺は野球帽を吹き飛ばされ、振り向くと、大きく宙に舞っていた。
「ああ……」
 母の手を振りほどき、追いかけると、帽子は杉の木陰にふわりと着地した。しゃがみ込んで手に取ると、頭上近くでセミが鳴いた。
 ジィィィイイイイ……
 見上げると、杉の幹の所々でペロリと剥がれた樹皮がぶら下がっていた。その色に溶け込むように、アブラゼミが一匹、二匹、三匹、四匹……
「水面!」
 そう聞こえた気がして振り返った。母の後ろ姿は遠くで帽子を押さえていた。気のせいか肩が小刻みに震えているように見えた。頭上では、セミの声が一段と高鳴った。
 ジィイイ、ジィー、ジィー、ジィー、ジィィィィー……
「うるさい、うるさい、うるさい……」木を見上げ、一番低いところで鳴くセミをつかまえようと跳びはねた。だが、伸ばした指先がわずかに届かない。俺は再び跳びはねた。やはりわずかに届かない。セミはさらに声を高め、前後に尻を振りだした。
 ジィイイ!ジィー!ジィー!ジィー!ジィィィィー……
 俺はなおも跳びはねた。何度も何度も跳びはねた。そのたびに枝葉の隙間から光の筋が差し込んだ。セミの声が前後した。
「水面!」
 今度ははっきりそう聞こえて振り向くと、間近に母が迫っていた。「どうしてあんたは!」
 パァーン!……母が俺の頬を張った。


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