LOGOS for web

完結した夏
 俺は音を立てないように、そっと立ち上がった。そして手を引かれるままに歩いた。女の子の真っ赤なタンクトップの背中でポニーテールが左右に揺れた。
 リビングを出ると、そこはセミの鳴き声だった。女の子はさらに手を引いた。俺はスリッパを足に引っかけた。スリッパは磨かれた廊下でくるくると回り、速度を落とし、やがて止まった。女の子が振り向いた。
「ここ」
 ドアを開け、部屋に入ると、ムッと熱い空気がこもっていた。女の子は窓を開け放した。セミの声が一段と高まった。網戸のすぐ向こう、桑の木が枝を低く垂れている。
「あんたのお母さん、きれいだけどきらい。だあれ、ひでとって?」
「僕の、パパ……」
 女の子は勉強机の椅子を引き、背もたれを前にして腰かけた。俺は目を落とした。足の指を握ったり開いたりした。
「あんたのお父さん、そんなにかっこいいお父さんなの?」
「知らない……」
「どうして?」
「だって……知らないから……」
「知らないわけないじゃない、あんたのお父さんなんでしょ?」
「だって……死んじゃったから……」
 女の子は背もたれに肘を乗せ、頬杖を突いた。
「ふうーん」
 勉強机には真っ赤なランドセルが乗っていて、その下部には白文字で『ふじしろ ようこ』と書かれてある。ベッドには黄色いカバーが被せられ、クマの柄の入った枕が転がっている。
「ねえ、名前、なんていうの?」
「たかさわ……たかさわみなも……」
「みなも?……じゃあ、うーんと……みいちゃん、は、いま何年生?」
「二年生……」
「じゃあ私のほうがおねえさんだ。私は三年生。名前は、藤館陽子」
「ようちゃ、ん……」
「そ。……ねえ、なにして遊ぶ?」
 洋服ダンスの上には汚れたクマのぬいぐるみがあり、勉強机の棚には少女マンガが立てられている。「ねえ、なにして遊ぶ?」陽子が脚を上下に揺すった。
「僕……わからないよ……」
「じゃーあー……おそと行こう!」陽子が立ち上がり、俺の手を引いた。
 少し内股で歩く日焼けした後ろ姿。その背中で揺れるポニーテール。玄関から差し込む逆光の中、ヤセッポッチの陽子がヤセッポッチの俺を引いて歩く。リビングの前を過ぎる時、母の視線が突き刺さった。俺は目を伏せた。
 スニーカーのマジックテープを留め、玄関を飛び出した。タンポポを跳び越えた。ギラギラと青い空。ジージーとセミの声。ひらひらと目の前を横切るモンシロチョウの向こうで、夏の日差しを浴びた真っ黒な陽子が大きく俺に手招きをする。
「こっち!」
 車庫の陰に消えた陽子を追うと、隣家のブロック塀と車庫との隙間が苔むす日陰の細道だった。横歩きに進む陽子の影の向こうには、遥か山の麓まで、青々と水田が広がっていた。


7(近)-1へ
BBSに感想を書く
著者へメール
寄付
back