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完結した夏
 振り向くと、陽子が一気に立ち上がり、駆けて来て、手にした四葉を差し示した。陽子の指につままれた細長い茎の先に、青々と四枚の葉が、大きく空に開いていた。
「ね?」
「うん!」
 陽子が八重歯を見せて笑った。汗ばんだ陽子から、石鹸のいい匂いがした。陽子はつまんだ四葉をプロペラのようにくるくる回転させた。
「ぅおぉーい!」
 向こうから、白い軽トラックがゆっくりと近づいてきた。小豆色の農協の帽子を被った老父が、しわまで日に焼けた顔を窓から出した。
「こんげ遅くまで遊んでっと、家のしょが心配するぞ。はよ帰れぇ?」
「おじさん、いま何時ー?」陽子が掠れ声で聞いた。空はすっかり傾いた日によって、美しく金色に染まっていた。
「今なぁ……もう六時だわやぁ。おめたち家どこだねぇ?」
 陽子が振り向いて指差した。「あそこー」
「あーの、赤っけぇ屋根ん家かぁ?」
「うん」軽トラックのタイヤの下で、切り裂いたミミズが内臓を飛び出させていた。
「こないだ越して来た藤館さんとこの子だかぁ?」
「うん」
「んー……なら近くまで送ってってやっから、ほら、後ろ乗れぇ」
「ありがとー」
「ありがとうございます」
 陽子と俺は車の荷台に手をかけた。荷台には農薬を散布する機械が積んであり、粉っぽい匂いが鼻にツンとした。後ろタイヤに足をかけ、二人は難なく乗り込んだ。
「おじさん、いいよー!」陽子が運転席の小窓をたたくと軽トラックがガクンと発車した。座る尻が一瞬浮いた。
 ガタガタと、農道が後ろに流れて行く。サワサワと、西日を浴びた田園が後ろに流れて行く。カナカナカナと、そこらじゅうでヒグラシが鳴いている。見上げると、地平線辺りの空がほんのり赤く染まっている。
「みいちゃん、これ」トラックのあおりにつかまりながら、陽子が四葉を差し出した。「これ……あげる」
 そして目を閉じた。
「みいちゃんが、お父さんのぶんまで幸せになれますようにー……はい」
 陽子の手から四葉を受け取ると、俺の口が歪もうとした。川面に反射する空は金色で、二人の影は道に長かった。
 農道の十字路をいくつか曲がり、雑木林を左に見た時、一匹のセミが頭上を越えた。ヒグラシの合唱は線香花火のように反響し、ミンミンゼミの声が右から左から迫り来る。アスファルトの道に出て、信号機を上に見た時、車のライトが点灯した。夕闇の空に外灯が灯り、無数の虫が群がり始めた。
 車が停まり、お礼を言うと、陽子が俺の手を取った。
「みいちゃん、また、遊ぼうね?」
「うん!」
 陽子の家が近づくにつれ、俺はつなぐ手に力を込めた。


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