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完結した夏
 母は立ち上がり、俺に背を向け、受話器をとった。
「はい、高沢でございます……ああ、お母さん……」母が天を仰いだ。「またその話?もう聞き飽きたわ……ええ、探してるわ……そう言うけど、女が職に就くことがどんなに難しいか、お母さんも知って……うん……うん……だから!その話は何度もしてるでしょ!お母さんと私は違……そう。だったら……うん……だからもう一月、お願いよ……うん……うん……大丈夫、サラ金なんて……うん、分かったわ。ええ。それじゃあね。お休みなさい」
 母は受話器を置き、しばらく立ち尽くした。細い肩の向こうに頭が沈んでいた。シャンデリアのガラス玉で弾けた光が白い天井をまだらに彩っていた。玄関の靴底に隠した四葉を思い、陽子の後ろ姿が呼び起こされた。母のくるぶしが回転し、歪んだ微笑が現れた。
「いただきましょう?」
 母は俺の向かいに座り、俺の手にグラスを握らせた。「乾杯」
 母はうっとりした目でグラスを傾け、ワインを回転させ、鼻にし、口にした。俺は手に持つアルコール臭に吐き気をもよおし、母が豚足を切り分ける隙を見計らい、そっと遠くに置いた。
「はい、あーん」
 今度はフォークに突き刺さった肉塊が、迫った。母は嬉しそうに目を細めていた。俺は息を止め、口を開いた。ゼリー状の不快な物体が、舌の上に残された。それはグチャグチャに腐ったゴムのように、あるいは満開のドクダミのように、俺の吐き気を誘引した。
 俺は何本も欠落した歯と歯でそれを噛み切り、息を止めたまま飲み込んだ。塊は喉の奥で支え、胸の間で支え、胃の底に落ちた。涙がにじんだ。
「はい、あーん」
 それは尽きる事なく繰り返された。母は五回に一回、口にするだけだった。ワインを口にするたびに紅潮して行く母の目もと。溶けて行くまぶた。下ろされ、湿っている長い黒髪。俺の胃袋から込み上げて来る酸の液。皮膚が張り裂けそうに膨脹した腹。
 ワインを口に流し込まれ、吐き気が上昇し、世界は蜃気楼のように回転した。ひとしきり空になったテーブルの皿に残る、汁やタレやそれらどろどろしたものが回転した。
 母がワインを大きく傾け口にした。俺は「トイレ……」と部屋を出た。暗がりの廊下を駆け、ドアを開き、陶器の便器に顔を突っ込んだ。放出。
 よくあることだった。揺れる便器の水面に、鬼気迫る子供の顔が映っていた。スズムシとコオロギの声は近く、俺の嘔吐の声はそれ以上だった。
 よくあることだった。黄土色の腐った水が渦巻いて消えた。非常な苦味が口を満たしていた。非常な酸味が鼻を突いていた。腹の膨脹は治まっていた。
 四角いトイレの窓で、真っ黄色の月がぼやけていた。
 俺は地べたに座り込んだ。もたれかかるドアで心安らいだ。ぼやけた黄色の月光が、トイレの陰影を保っていた。だが、俺はすぐに立ち上がらなければならなかった。
 口に付着したガビガビのカスを見たら、母はまた料理を作るだろう。
 俺はよく洗面し、急いで廊下を戻って行った。夜虫の声は青い廊下で交錯し、キッチンを過ぎて角を曲がると、明かりの漏れるドアの隙間から、母の鼻唄が聞こえた。


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