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完結した夏
 15(遠)

 物音に気づいて薄目を開けた。母が三面鏡に向かって手を動かしていた。障子が純白に輝いていた。
 腕の動きと連動する母の背中の筋肉が、徐々に昨夜の母を呼び起こし、繋がり、重なった……またがり、うずくまり、動物的に喘ぐ母……全身に残る生々しい感触……見ると、どす黒い異様な靄が、俺の身体をタオルケットごと覆っていた。
 母は鏡に身を乗り出して、何度も半目にマスカラを通過させた。そのたびに、目の輪郭が際立って行った。俺は視線を絡み取られたように母の姿を見詰め続けた……動物的な目……求めるような目……哀れむような目……バターのように溶けて行く表情……それらの映像が次々と、生々しく、目前に迫った。
 コッ……キャップの閉まる音がした。鏡の中の母と視線がぶつかりそうになった。寸前、俺は目を閉じた。
「ふふふ……水面、起きてるんでしょう?」
 その言葉にビクッ、とした。だが俺は目を閉じ続けた。
「だめよ?寝た振りをしても。まぶたが動いてるわ」
 ガタッと、三面鏡の引き出しの音がした。
「水面、お化粧はね、はじめにイメージするところが大切なの。目だったり、眉だったり、唇だったり……そこを引き立たせるように残りを決めて行くの」
 母の動きを音が知らせる。引き出しを閉め……畳を歩き……洋服ダンスを開いた。
「でもね、はじめに唇をイメージしない女……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……服や髪型に合わせるなんて、問題外」
 洋服が肌に擦れる音がして、ジッパーの音がした。
「み……」俺はビクッとした「な……」母の声は息がかかるほど耳の側だった「も」頬に母の唇が触れた。
「ママ、お仕事に行ってくるわね?」
 母の音が立ち上がり、部屋を出て、遠のいた。このように言って出かける時、母は数日家を空けるのだった。階下で玄関のドアがカチャッと閉まった。俺は胸で凝り固まった息をゆっくりと吐き出した。
 俺は目を開けた。あれは夢だったのか?……畳の寝室はガランとしていて、障子は白くまぶしかった。
 夢だったのだ……俺はヤセッポッチの身体を起こした。タオルケットがずり落ちた。俺の目に涙があふれた。
 ……下腹部から腿にかけ、卵色に干からびたカスが一面に貼り着いていた……


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