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完結した夏
 17(遠)

 陽子の家に行く途中、道端にある花壇にしゃがんだ。
 放置された花壇には夏草が雑然と生い茂り、その隙間から、色鮮やかな花々が点々と顔を出していた。ミツバチは宙に浮き、蝶は花びらに足を下ろしている。夏草をつかんで引き抜くと、ダンゴ虫がうごめいていた。
 細い十字路をいくつも越え、色褪せた小さな寿司屋を過ぎ、トタン貼りの電気屋を左に折れた。砂利道のフェンスによじ上り、公舎の裏手に飛び下りた。枯れたまま何年も放置された公舎の噴水は底に乾燥した泥を分厚く敷きつめ、俺はそのヒビ割れに手を差し入れて、ぐっと持ち上げて空に投げた。乾燥した泥が砕けながら宙を舞った。
 正門の階段を駆け上り、車椅子用の坂を駆け下りた。だだっ広い駐車場を走り抜け、列を成す杉の木を縫い走り、コンクリートの川を跳び越えた。横断歩道を走って渡り、陽子の家に到着した。
 俺は玄関先に立った。だが、目前のチャイムがどうしても押せなかった。俺はすりガラスから中を覗いた。しかし、ぼやけてよく見えなかった。
 俺は外から陽子の部屋へ廻ることにした。勝手口の前を忍び足で通り過ぎ、洗面所の窓の下をかがみながら歩き、障子の見える窓を越え、角を曲がるとすぐ目の前に桑の木があった。窓に近づき、ゆっくり下から頭を出すと、陽子の姿は部屋になかった。ベッドは乱れ、勉強机に赤いランドセルがあった。
 見上げると、桑の木がすぐ頭上まで枝を垂れ、その枝先で、カミキリムシが触角を動かしていた。そっと枝に手をかけて、ゆっくり下に引き下ろし、カミキリムシに指を開いた瞬間、「みいちゃん」陽子の声がした。
 俺は枝を手放した。枝は空に跳ね上がり、バサッと音を立てて上下にしなった。陽子が窓をいっぱいに開けた。
「ハハハハ!……なあに、クックッ、その、クッ、あたまー!ハハハハハ!」
 陽子は掠れ声で笑いながら、窓から手を伸ばし、俺の頭を撫で回した。ジョリジョリとくすぐったい感触が頭の表面を回転した。
「ハハハハハ!ハハハハハ!……」
 鮮明に思い出される……渦を巻いて排水口に流れ込む無数の毛髪……鋭いハサミをかざして迫る、母の怒り狂った目……そして……
「あ、あの……」陽子の白い歯が見えた。「……ああそぼ!」
 陽子が笑いをこらえて言った。「クックッ……いいよ……クッ……玄関のとこで……クックク……待って、クッ、て、ク……ハハハハ!」陽子のヤセッポッチの背中が腹を抱えながらドアの向こうに消えて行った。俺は玄関先に廻った。
 すりガラスに陽子の影が浮かび上がった。「行ってきまーす」出てきた陽子の肩越しに、コバルトブルーの花瓶が見えた。


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