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完結した夏
「ねえ、なにして遊ぶ?」陽子が好奇心旺盛な目つきで繰り返した。「なにして遊ぶ?」「えーっと……」敷石のタンポポが、やはりしおれていた。「えーっと……」
 陽子が跳ねた。「そうだ、プール行こう!」俺は大きくうなずいた。「うん!」陽子が玄関に振り返った。「私、水着とってくる!」バタバタと陽子が廊下の奥に消え、そして小さく声が聞こえた。
「お母さーん!水着ー!」「……なあに?」「わーたーしーのーみーずーぎー」「水着って、泳ぎにでも行くの?」「あたりまえでしょー!だーかーらーはーやーくー」「泳ぎに行くって、一人で行くの?」「いーいーかーらー!はーやーくー!」
 鮮明に思い出される……全身で優しく微笑んでくれる母……優しく名を呼ぶ母の声……優しく撫でてくれる母の手のひら……
 見上げると、空はやはり鮮やかな青だった。背後で隣家のヒマワリの頭は大きく、セロリのような首も太かった。
「陽子、気をつけなさいよ?この間も、お隣りの真理子ちゃんが……」
 振り向くと、陽子が玄関でビーチサンダルに足を突っ込むところだった。陽子の背後では、婦人がビニールのバッグにタオルを詰めていた。
「みいちゃん、水着はー?」
 婦人が俺に気づき、微笑もうとした。だが、その顔は突然強張り、そしてすぐ、それを隠すように浮かべた笑みは、奇妙に歪んだものだった。
「あ、あら、水面ちゃん……遊んでくれて、ありがとう、ねえ……」
「ねえ、みいちゃん、水着はー?」陽子の背後で、婦人の顔は本来の形を忘れてしまったかのように歪み続けていた。「家……」
「じゃあ、はやくとりに行こうよ!お母さん、行ってくるねー!」「え、ええ……気を、つけて、ねぇ……」
 陽子が飛び出すように駆け出して、俺の横を通過した。婦人の顔はまだ歪んでいた。「水面ちゃんも、気をつけて、ねぇ……」陽子が戻って来て俺の手を引いた。
「はーやーくー!」
 俺は陽子に手を引かれ、婦人にお辞儀して、走り出した。
 横断歩道を走って渡り、杉の間を駆け抜けた。「みいちゃん家、こっち?」俺はうなずいた。陽子が走る速度を速め、さらに強く手を引いた。
 駐車場を抜け、フェンスの切れ目に身体を通した。水のない側溝をまたぎ、砂利道を走った。日に焼けた陽子の腕が、細く痩せている。ビーチサンダルで走る陽子の脚が、細く痩せている。陽子の真っ黒な髪に、太陽が映り込んでいる。
「こっち!」
 俺は声を上げた。そして陽子を引くために、全力で走った。陽子もさらに速度を上げた。頭上に枝が張り出して来て、茂った葉から木漏れ日が瞬いた。爪先が大地をえぐり、木陰の砂利が跳ね上がり、宙を舞って日にさらされた。
「こっち!」砂利道を抜け、小さな工場を左に曲がり「あ!」陽子の手が、ガクンと後ろに留まった。「みいちゃん!」
 振り向くと、陽子のサンダルが、日向の道の真ん中にぽつんと一つ残されていた。


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