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完結した夏
 陽子が深呼吸した。少し遅れて俺も真似した。
 プールサイドについた足跡が、みるみる蒸発して消えて行く。「私なんて、300メートル泳げるんだよ!」陽子がプールに駆け出した。俺も後を追いかけた。「うそだー!」陽子がプールサイドで立ち止まった。
「じゃあ、競争だよ!」そして飛び込んだ。「いいよ!」俺も同じところから飛び込んだ。
 水の中は明るかった。エメラルドグリーンがかった何本もの脚や腹や腕がスローモーションで動いていた。頭上の水の表面が揺らめくたびに、何本もの光の筋が差し込んだり消えたりした。
 前方で、気泡をまとった陽子の身体が水平にクロールで泳いでいた。俺も負けじとコンクリートの底を蹴り、水をつかむようにクロールした。
 俺は息継ぎが苦手だった。水面から顔を上げ、息を吐き出してから吸う時に、必ず小さな水粒が気管支の奥に侵入した。
 俺はバタ足が苦手だった。手を動かすことに集中すると足が止まり、足を動かすことに集中すると手がぎこちなくなった。
 しばらく泳いで行くと、ターンを終えた陽子がゴボゴボと音を伴って、頭から足の方へと過ぎて行った。少しして、俺の指にも壁が当たり、ターンした。
 俺の身体はすぐに重くなった。顔を上げるたびに、自分の呼吸音が耳についた。ゴボゴボと水の音が耳についた。プールの底ではハチの巣のような水紋が揺らめき、そこを自分の影が泳いでいた。水を掻く腕が重くなり、水を蹴る足が重くなり、身体が沈んで息が苦しく……
「バアッ」
 俺は足を着いた。人々の声が耳に開けた。揺るがない世界が目に開けた。頭上に青空があり、太陽がギラギラと揺らめいていた。だが、地平線近くの南の空には、どす黒い雲があった。
 不意に、俺の背中に何かが触れた。振り返ると、水に潜っている陽子の手だった。
 陽子の手は俺の背中から脇腹に移り、上に向かい、脇の下に入り、強烈にくすぐった。俺は身をよじらせた。笑い転げた。陽子の手はなおもくすぐり続けた。俺は悶えながら水の中に倒れ込んだ。
 口から気泡がどっとあふれた。俺の身体はスローにうずくまった。陽子の手はさらに脇の下深くに侵入した。俺は脇を絞め、身をよじり、陽子の手をつかみ、引き抜いた。見ると、水中の陽子が頬を膨らませて笑っていた。
「バアッ……ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ……」
 陽子が笑いながら俺の背に覆い被さった。俺は陽子を背負ったままスローに水中を走り、笑った。陽子の水着がスポンジのように柔らかく背中に密着し、陽子の腕が肩に軽く食い込んだ。最高だった。
 俺は陽子を背負ったまま水に倒れ込んだ。陽子を痛い目にあわせるためだった。水中でスローに倒れながらしばらく陽子を溺れさせ、そして両足を放した。陽子は両手で水を掻き、急いで水上に顔を出した。
「バアッ、ゲホッ、ゲホッ……ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ……」
 陽子の笑い顔の表面を、滑らかに水が引いて行った。南の空のどす黒い雲がさっきよりも膨らんでいるように見えた。


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