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完結した夏
 俺の肩をつかむ陽子の手に力がこもり、俺の胸に陽子の熱く湿った息がかかる。俺の胸に熱い水が広がり、俺は髪ごと陽子の頭に口づけた。陽子の首筋が、肩が紅潮し、汗をびっしり噴き出している。俺は髪ごと陽子の頭に口づけた。
 壁で四角い窓が光っている。
 陽子は間断なく肩をひきつらせ、鼻をすすり、顔を俺の胸から少し上げた。俺は陽子の泣き顔に貼りついた髪を、手の腹で丹念に剥がした。閉じられたまつ毛に涙の粒がしがみついていた。
 俺は両手でそっと液体まみれの陽子の顔を引き寄せて、まぶたを、頬を、舐めて拭いた。歪んだ口もとを濡らす液体を舐めて拭いた。陽子が歪んだ唇で俺の舌を柔らかく挟んだ。そして熱い舌を絡ませた。
 そのまま抱き合い、そのまま眠った。
 俺は再び目を覚ました。窓は金色の光だった。しわくちゃのシーツもまた、金色だった。隣に陽子の姿はなかった。
 そして天井や壁や床もまた、金色だった。
 ああ……俺は、窓から広がる金色の光の世界の中で、こうしてベッドに横たわっている……まるでマーラーの緩やかな管楽に包まれるように……俺の身体はベッドごとゆっくり宙に浮き、あるいは地に沈み、そして回転する……俺は両手を開く……俺の身体はベッドを離れて上昇し、シーツは腰から滑り落ち、全く自由な裸体が金光に献上される……光は暖かく、優しく、全くの輝きで……背後で二千年の歴史が二秒で映写された後、巻き終えたフィルムの尾が映写機を鞭打っている……俺は顔を戻す……光の中からカラスの黒い羽根が舞い落ちて来る……それは羽ばたく天使の羽根で……天使は陽子の泣き顔だった……
 俺はタバコをくわえて点火した。耳を澄ますと、隣のレコードの部屋から、マーラーが本当に流れていた。
『本当に』?……それは知覚を拒絶できないもの……つまり俺であって俺でないもの……俺以外の俺であるもの……これが全ての混沌を巻き起こす原因……このこれがどれを指すこれかという問題……だがウィトゲンシュタインは言う……いや、言った……全てのものを疑うと何も疑えなくなる……疑うためには疑うという行為それ自体を信じなければならない……例えばこのタバコの煙は存在するだろうか……いや、この視覚は存在するだろうか……だが、この問いを立てている俺は存在していなければならない……つまり俺が時速二千キロ以上で過去から遠ざかっている……この部屋に居ながらにして……だから揉み消すのだ……繋がらないことを、次々に繋げて行くのだ……その可能性など紙一重でしかない……「見ろ、光を!聞け、旋律を!味わえ、肉を!」
「それを待っているに違いないんだ……」つぶやいて、煙を深く吸い込んだ。
 みいちゃん!
 金色の窓の外、ベランダから、陽子の掠れ声がした。
 俺はタバコをくわえたまま裸でベッドを降り、キッチンを通り、マーラーの流れるレコードの部屋を抜け、ベランダに足を下ろした。金色の光を浴びた陽子がタオルケットを身体に巻き、椅子に腰かけ、空を見ていた。「何?」
 陽子が振り返って微笑した。
「おはよう」
「おはよう」
 俺はそのまま歩き、もう一つの椅子に腰かけた。「やっぱり解放とは、精神のことらしい」
「見て」陽子の顔が金色の光をいっぱいに浴びていた。「神さまの時間」


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