LOGOS for web

完結した夏
 俺は腹が減っていることにした。階段を下り、キッチンの照明を消して点け、冷蔵庫の扉を開けた。食パンとバターと牛乳とワインと牛肉の塊とワインと氷とアイスクリームと氷とワインがあった。俺は棚を開けた。缶詰めとジャガイモと調味料と調味料があった。俺はレンジを開けた。何も入っていなかった。俺は蛇口を捻った。洗い桶にたまった食器に弾けた。
 俺は風呂に入れられることにした。湯のない浴槽に座り、百まで数えた。そして褒められたことにして、バスタオルで包まれたことにした。
 リビングに食事が運ばれることにした。ソファーに行儀よく座り、目の前に皿が並べられ、グラスにワインが注がれたことにした。そしてトイレに駆け込み、吐いたことにした。すぐにリビングに戻らなくてはならないことにした。
 そして、ソファーで泣いた。
 天井を見上げ「マぁーマぁー!」と濁りながら叫んだ。繰り返し、繰り返し叫んだ。だが、少しも気は紛れなかった。不安は増す一方だった。
 叫ぶたびに母の仕種が目の前をよぎった。微笑んで撫でてくれる母、キッチンで振り返る母、一緒の浴槽で微笑む母、一緒の布団で撫でてくれる母、いろんな母が目の前をよぎった。
「マぁーマぁあああー!」
 自分で聞き取れるほど、叫び声は家中に反響していた。まるで何十人もの自分が一斉に泣いているかのようだった。
「あぁあーあー……」
 その時、チャイムが鳴り響いた。「ぁ……」俺の叫びが胸に詰まった。再びチャイムが鳴り響いた。
 俺は音を立てないようにそっとソファーを立ち、廊下に出た。さらにチャイムが鳴り響いた。玄関のドアの横にあるすりガラスに、二人の男の影が浮かび上がっていた。立て続けにチャイムが鳴り響いた。
「高沢さぁーん!」ガラの悪い、ドスの効いた声だった。チャイムが鳴り響いた。「高沢さぁーん!」男の影がドアを叩いた。「おぉい!いるんだろ!」激しくドアを叩いた。「おい!」激しくチャイムが鳴り響き、激しくドアが叩かれた。
「そこにいんだろぉ?なぁ、いい加減に、金返したらどうだぁ?あぁ?こっちも遊びでやってんじゃねぇんだぞ?おぉ!」
 ダン!男の影がドアを蹴った。
 俺は後退さり、そっと階段に足をかけた。きしまないように両手をついた。
「……なぁ、まず開けろや?んん?」
 男の顔が近づき、目鼻がガラスに浮かび上がった。ぼんやりと浮かぶ黒目が、こちらを捉えているような気がした。
 俺は音を立てずに階段を上り切り、寝室に飛び込み、布団を頭まで被った。だが、ドアの叩かれる音は、チャイムの鳴り響く音は、よけいに鮮明に聞こえて来た。男の叫び声が夜道に響き渡っていることまで分かった。
 俺は耳を塞いだ。心臓がはちきれそうに高鳴っていた。俺は身体を縮こまらせ、きつく両目を閉じた。
 だが、それでも、恐怖は玄関先にあり続けた。
 うう……聞こえる……ダン……開けろこらぁ!


25(近)-1へ
BBSに感想を書く
著者へメール
寄付
back