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完結した夏
 26(遠)

 連日の罵声を経過して、恐くて家を出られなかった。家中の鍵をかけ、カーテンを閉め、夜ですら明かりを灯さなかった。窓に吹きつける風に脅え、膝を抱えて虫の音を聞いた。時々、電話が静寂を引き裂き、両手できつく耳を塞いだ。
 今日で何日になるだろう……冷蔵庫を開けば絶望に囚われる。
「ママ……」
 空腹と言うより、危機的な感覚だった。全身が痙攣し、脱力し、火照り、脂汗が噴き出していた。パンやアイスクリームは言うまでもなく、皮のままのジャガイモや、生肉さえも食べ尽くしていた。床に空のマヨネーズも転がっていた。
 俺はカーテンの隙間から、そっと外を伺った。植木の陰にやつらの姿はなかった。だが他のところに隠れているのかもしれなかった。
 俺はふらつく足で玄関のドアまで歩き、震える身体を手で支え、背伸びをし、覗き穴に片目を着けた。円形に歪んで見える玄関先に人影はなかった。
 俺はカタカタ痙攣する手をドア伝いに滑り落とし、真鍮のノブにかけると、音を立てないようにそっと捻った。徐々に開いて行く隙間から外を伺った。目をくらませる明るい道に、やはり誰の姿も見えなかった。
 俺はドアを出て鍵をかけると、静かに、だが素早く、道に飛び出した。これで大丈夫だ。そのはずだ。
 金はなかった。だが、とにかく一番近いスーパーへ向かった。母とよく行く個人経営のこじんまりとしたスーパーが、一番近いスーパーだった。何にせよ、近いことが重要だった。鮮やかな路地の両側から聞こえてくるセミの鳴き声は、気のせいか粗雑で疎らだった。圧倒する感じがなかった。
 店先から、店主である婦人のボッテリした後ろ姿が見えた。ガラス越しの婦人は、レジで何やら手を動かしていた。自動ドアが横に開くと、婦人は手を止めて振り返り、見下ろし、客が俺であることを認識して微笑んだ。
「おや、いらっしゃい。今日はお母さんと一緒じゃないのかい?」
 俺は目を伏せてうなずいた。
 とにかく急がなければならなかった。俺は小走りに菓子のコーナーへ行った。だがそこは婦人の死角ではなかった。俺はそこを通り抜け、アイスクリームのコーナーへ行ってみた。だがそこも死角ではなかった。
 それから野菜のコーナーやパンのコーナーや、とにかく店中をぐるぐる回り、婦人の死角を探ってみた。だが、どこに行っても、例えば天井に斜めに取りつけられた鏡によって、婦人を見ることができた。つまり、婦人が俺を見ることができた。婦人はレジでなおも手を動かしていた。
 俺の視界に、いよいよ黒い砂嵐が迫っていた。俺は菓子コーナーの前にしゃがみ込み、婦人がこちらを見ていないことを確認し、キャラメルや飴や、ポケットに入りそうな小さなものを手当り次第に詰め込んだ。そして婦人を確認した。レジに目を落としてはいるが、何となく不自然な感じだった。だが、黒い砂嵐は視界を全面的に覆い尽くそうとしていた。


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