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完結した夏
「ママ……」
 見ると、母の三面鏡があの時のまま開かれていた。俺は布団から這い出して、自分の顔を映してみた。正面の鏡、そして左右の鏡に俺が映った。三つの俺は障子越しの青い光を浴びて、どれも暗く沈んでいた。
 俺は引き出しを開けてみた。青い光の中、化粧水やハンドクリームやヘアスプレーや、それらのビンや缶がぎっしり詰まっているのが見えた。
 ……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……
 俺はそこから口紅を取り出した。流線的にねじれた四角い筒に、金文字で『YVES SAINT LAURENT』と書かれてあった。キャップを外すと、深い色の口紅が、クレヨンのように切り立っていた。
 ……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……
 俺は鏡を見詰め、それを唇にそっと当て、深い色をゆっくり引いた。上唇の形に合わせ、慎重に引いた。右端まで引いて下唇に移り、唇を左右に引き伸ばしながら左に向けて引き終えた。そして鏡を見詰めた。目頭が熱くなった。
 トラ刈りの頭に幼い顔、そして深い色の唇……だが、俺の目にはそれが、まさしく母の顔に見えた。歪んだ笑みを浮かべる、恍惚とした笑みを浮かべる、優しい笑みを浮かべる、母そのものに見えた。
 俺は鏡を閉じた。さらさらとした熱い水が鼻から伝った。俺は布団に横たわった。電灯が天井で動かなかった。スズムシが夜空を控えめに彩るように鳴き、コオロギの声がそれに絡まり、追い越し、また絡まった。俺はタオルケットを頭まで被った。きつく目を閉じて羊を数えた。その時……
「ハハ」かすかに遠くで声がした……声は近づくにつれ……「いや、本当、とても子供を産んだような身体には見えない」酔いの艶を含んで行く……大人の男女だ……声は夜道に響き……カツカツ……二人の靴音……門を曲がった……「シーッ、目を覚ますじゃない、もう」……母だ。
 ガチャッとドアの開く音がして、荷物を廊下に置いたのだろう、カタッと床の音がした。そして、ヒソヒソと話す声がした。「ねえ」「ん?」男の低い声が響き、口づける音がした。
 二人は靴を脱ぎ……時々、笑いをこらえながら……廊下を歩き……リビングに入って行く……「ちょっと待ってて?」媚びるような母の声がして……「何これ……」「どうした?」「ん、んん、何でもない」キッチンに入った……「ねえ、ワインでいい?」「ああ」……リビングに戻った……
 俺は目を開けた。障子を透過した月光が青白く俺の身体を照らしていた。階下で二人のかすかな笑い声が重なった。俺は布団を立ち、障子をそっと横に開いた。ガラスの向こう、澄み切った夜空に乾いた月がじっと動かなかった。美しかった。
「うふふ……」
 だが、俺はすぐに布団に戻り、タオルケットを頭まで被らなければならなかった。
「だーめ……」
 もうすぐ母の薄気味悪い泣き声……今ではそれが何の声か知っている……が聞こえるだろうから。


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