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完結した夏
 これからどこへ行く?深夜、仕事を休んで。陽子が優しく手を引く。こんな悪酔いしている俺を、どこへ連れて行く?左の肺に刺すような痛みがある。痛みは苦痛の一部なのか?俺の顔が歪もうとする。もしこの痛みが一生続くのなら、俺は今すぐ死にたい。いや……もし、死というものが他の生命に食されることによって初めて正当化されるとしたら、この痛みが病原菌によるものだとしたら、俺はこの痛みに耐え、食い潰されるまで生き続けるべきなのか?
 そうだとしたら……確かに俺は数え切れない命を食してきた……それに罪悪を感じて言っているわけではない……ただ……何のために、こんなことを繰り返さなければならないんだ……原子核融合、分子結合、そして分離……何のため?……分からない……そしてそれに抗う理由もない……
 夜道に風が吹き抜けた。右手に走る山手通りをタクシーのテールランプが切れ切れに過ぎて行く。オレンジ色のライトに照らされた淡いガード下で、トランペットを吹く男がいる。頬を膨らませ、首に太い血管を何本も浮き上がらせ、歪んだ音を響かせている。
「ようちゃん」
 陽子の頭が振り向いた。ウィンドブレーカーのフードが風で膨らんだ。
「例えば、ようちゃんが結婚するとする……場所は……そう、シチリア島だ……シチリア島の教会で、ようちゃんとその男は、黒い聖衣の神父に誓いを立てる……そして、ベンツの四駆に乗っかって、地中海を船で越え……エジプトまで行くんだ……」
 陽子が歩きながら微笑んでいる。
「そして男はこう言う……アフリカの海岸線をぐるっと廻り、東に向けてひた走り、車が壊れて動かなくなったところ、そこで暮らそう……それが新婚旅行だ……」
 横断歩道の赤を渡り、ビルの麓を歩いて行く。
「車は給油を繰り返しながら南アフリカを越え……ソマリア……エジプト……サウジ……イラン……インド……そして……シンガポール……そこでベンツは事切れる……ようちゃんの指に二十カラットのダイヤがきらめき……髭の伸び切った男の頬に口づけて……二人はそこに小さな居を構えるんだ……それは素晴らしい家だ……」
「みいちゃん……」陽子が振り返りざま、俺の胸に抱きついた。「前の彼のこと……どうして聞かないの……」
 聞くわけがない。
「それよりも、行こう」耳の側でモーツァルトのレクイエムが流れているうちに。「あの透明感……ソプラノ、テノール、アルト、バス……人間の声の素晴らしさ……」


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