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完結した夏
「……ママの口紅、使ったのね?」俺はじっと口をつぐんだ。「……ママの口紅、使ったのね?」母の手が俺の両肩をつかんだ。男の顔がタオルから現れた。「……ママの口紅、使ったのね!」
 パーン!……母が俺の頬を張った。
「おい……」男の顔が強張った。「ママが口紅を大切にしてるって、知ってるわよね?」頬を張った。「どうしてあんたは……」頬を張った。「いつもいつも!」母の振りかぶった手を男の手がつかんだ。「やり過ぎだ!」
 口内に血の味がし、鼻から水のようなものが伝った。目の前の母の目が、興奮によって潤んでいた。
「やり過ぎだぞ!」母の腕をつかむ男の腕がたくましかった。だが、俺はその腕にしがみついた。「やめてください……」「……何だ?俺はお前をかばってやってんだぞ?」俺はなおもその腕を引き離そうとしがみついた。「やめてください……」男のたくましい手が母の細い腕を投げ捨てた。「何なんだ、お前ら」男は背を向けて立ち去った。
 向こうでバタンとドアの音がした。母は立ち尽くしていた。
「ママ……」俺は鼻をすすった。鼻の奥から喉を通り、どろどろした鉄臭い液体が胃の底に落ちて行った。「ママ……」
「ママ、ママ、うるさいんだよ!」母の両目がカッと見開いた。「たまには自分のことを自分でやったらどうなんだい!」俺の肩をすり抜けて、男の後を追って行った。洗面台の蛇口の横に、男のT字の剃刀が残っていた。
 俺はドアを開け、鼻をすすり、便器に放尿した。「お前が出て行けって言ったんだろうが!」向こうで声がした。陰茎を上下に振り、パジャマのスボンを上げた。洗面台に背伸びして、蛇口を捻って手を打たせた。「お願いだから!」向こうで声がした。正面にある大きな四角い鏡の下の方に、辛うじて俺の顔が映った。トラ刈りの頭に、口紅と鼻血の赤が鮮やかだった。
 俺は石鹸を泡立てて顔を擦り、水に流してまた顔を上げた。口紅は落ちていた。だが、鼻血はなおもわずかに垂れていた。俺は鼻をすすり、あごを上げて鼻をつまんだ。漏れ出た赤い血が、ゆっくり肌を滑り降り、残った水滴ににじみながら、あごの先まで伝って行った。「この売女!」向こうで声がした。
 俺は鼻をつまんだまま部屋に戻った。廊下にセミの声と母の喘ぎが交錯していた。鼻にティッシュを丸めて詰め込み、着替えて階段を下り、玄関に腰かけた。スニーカーに足を突っ込み、マジックテープを引き上げて留めると、目の前で玄関のドアが開いた。
 玄関先には陽子が立っていた。
「みいちゃ」あぁ!背中で母の声がした。「……あ……そ……ぼ……」陽子の姿の向こうで、空はほとんど曇りかけていた。んん!背中で母の声がした。
「行こ……」俺は陽子の手を取って家を出た。


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