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完結した夏
 台座から落ちないように、陽子と俺は狛犬を挟んで両手を繋ぎ、空を見上げた。高らかなセミの合唱の中、松の針葉に円く囲まれた空は薄暗く曇っていた。
「みいちゃん」狛犬の顔が頬にザラザラした。「さっきね……もう転校しませんようにって、お願いしたの」円い曇天にカラスが翼を広げて横切った。「だって、みいちゃんとずっと遊んでたいもん」狛犬の頭に隠れて、陽子の顔は見えない。
「僕だって……」ポツッ……額に雨が当たった。そしてすぐ、腕や頬にもポツポツと当たった。「雨……」
 見上げると、円い空で濃い雲と薄い雲がせめぎ合っていた。濃い雲が煙のように巻き上がり、散り、うねりを上げてまた寄り集まる。そこから疎らに雨脚がポツポツと現れ、当たり、狛犬の肌をまだらに染めて行く。
「ねえ、みいちゃん」陽子が狛犬の横から顔を出した。「……ちゅう、したことある?」陽子のポニーテールが左右に揺れた。

 ちゅう……

 その言葉は、俺と陽子の顔の中間位置に、ある生々しい映像を呼び起こした。「ねえ、したことある?」……動物的な目……俺は首を横に振った。「……して、みようか?」陽子が身を乗り出した。「ねえ、してみようか?」……求めるような目……「どうしたの?怖いの?」……哀れむような目……俺は首を横に振った……「じゃあ目をつぶって」……バターのように溶けて行く表情……俺は目を閉じた……「はい」……

 ガチッ!

 目を閉じていて距離が分からなかったのだろう、前歯と前歯がぶつかった。同時に、映像は完全に消え失せた。
 一転して、俺の中に何か、明るいものが込み上げて来た。目を開こうとすると、陽子が叫んだ。
「ちょっとまって!もう1回……はい……」
 今度は柔らかいものが徐々に押し潰れる感じで触れた。触れ合って、十秒くらい、触れ続けた。
 柔らかいものが離れて行き、目を開けると、狛犬の肩の横に不安気な陽子の顔が見えた。「……どうだった?」「うん……」雨が次々に二人の身体に落ちた。「……レモンの味なんて、しなかったよね?」「うん……」
 陽子の顔がニッと笑った。「たいしたこと、なかったね!」陽子が狛犬を飛び下りた。「うん!」雨は確実に激しさを増していた。「帰ろ!」陽子が下から手を伸ばした。
「うん……」手につかまり、俺も飛び下りた。
 二人で下りる松林の階段に、セミの声と雨音は判別なく響いていた。欠落した石段を構わず駆け下りながら、右手の木々の隙間に靄のかかった水田を見た。陽子のヤセッポッチの肩が上下に揺れ、赤い鳥居をくぐる時、陽子は振り返って小指を突き出した。
「今日のことはぜったい、だれにも言っちゃだめだからね?いい?約束だよ?」
 俺も小指を突き出して、二本の小指が絡まった。


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