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完結した夏
 俺は目を閉じ、ほどよく熱い湯を全身に感じながらビールを口にした……ああ……こうして身体を伸ばし、温かな流動と同化する感覚……むせ込むような湯気は俺を内側から満たし……身体の重さも、緊張も、全てが溶け出して行く……湯を掻けば、浴室に反響する水の音……排水口に流れ落ちる音……まぶたの裏の赤……目を開けば腕の表面から引いて行く湯の膜……鏡に映る、タイルの艶やかな表面……タイル……タイル……タイル……
「くそっ……」俺はビールの缶を放り投げた。缶は黄色い液体をまき散らしながらゆっくりと宙を回転し、壁に跳ね返り、落下した。落下した缶はコロコロと音を響かせながら斜めにドアへと転がり、当たって止まった。止まった缶の口から黄色い液体がトクトクと音を立てて白いタイルに広がった。
「くそっ……」俺の声が低く反響した。
 浴槽を出てバスローブを羽織り、海の夜景をいまいましくカーテンで塞ぎ、缶ビールをまた取り出した。バスタオルで頭を掻きながらソファーに深く腰かけて、タバコをくわえて火を点けた。壁のまだら模様がかすかに渦を巻いてうごめいたような気がした。見ると、閉じられた部屋のドアが、閉じられたカーテンのヒダが、その輪郭を主張し始めた。
「こんなところに閉じ込めやがって……」それは陽子に向けた言葉ではなかった。
 俺は静寂が聞こえてくる前に部屋を出て、エレベーターで一階に下り、ロビーを抜け、ホテルのバーのドアを開いた。
 黒を基調とした薄暗い店内は海側の壁が全面ガラス張りになっていて、それに向かってテーブルが四つ並べられている。テーブルでは一組の老夫婦と二組の中年夫婦がくつろいだ雰囲気で話をし、それぞれの手もとに落ちたピンスポットの青い光が清涼感を醸し出している。俺はボーイの目配せから席を選び、海を背にしてカウンターに座った。
「ターキー、ロックで」ボーイはカウンター内でグラスを拭きながら、それがないことを目で詫びた。「バーボンなら何でもいい」俺はタバコに火を点けた。よく聞こえなかったが、ボーイは「かしこまりました」と言ったようだった。
 ピアソラの旋律に紛れて聞こえる背中の夫婦たちの控えめな会話は、俺の陰口に聞こえないでもなかった。それは丁重に差し出されたバーボンのグラスの表面を上って行くタバコの煙を見たからには仕方のないことかもしれなかった。グラスを傾けて濃厚なアルコールを味わえば、脳天に一本の針が突き刺さるような感覚がし、その感覚がまたグラスを傾けさせた。
 いや、実際は……カウンターで座る俺自身という意識の存在が示すように……なぜグラスを傾けるのか、それは恐らく、ほとんど強迫観念だった。


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