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完結した夏
「……はん」男が鼻で笑ってソファーに座った。母は背を向けて受話器を耳に当てた。上げられた後ろ髪が首筋にほつれている。「……ごめんなさい、水面がちょっと悪戯……」
 母の首筋に二本の筋肉が隆起した。「もういいわ!……分かったわよ!」二本の筋肉が隆起した。「もうあんたなんかに頼まないわよ!……ええ!そうよ!……私が今までどれだけあんたにこき使われて……ちょっと!もしもし!」
「おーおー、凄い迫力ですこと」男がタバコをくわえながらソファーに大きくもたれた。母は受話器を首に当てたまま動かなかった。「ボク、ああいう風にだけはなっちゃだめだぞー?昔からなあ、短気は損気と言って……」母の首筋に当てられた受話器が小刻みに震えた。「おお、今度は涙……全く、自由自在だね」母の頭が向こうに沈んだ。「いい女優になれる……」
「やめろ!」俺は立ち上がり、男をにらみつけた。「……やめろ!」
 男は座ったままゆっくりと身を乗り出し、灰皿にタバコの灰を落とした。「……何だ?」男が顔を上げ、じっと俺を見据えた。「……何を、やめるんだ?」えぐるように鋭い目だった。
「いいの」後ろから、母の腕が俺の身体に巻きついた。「いいのよ、水面……ありがとう」後ろから、俺の頭を撫でた。「……ママは大丈夫だから……ね……いい子だから……」俺の頭を撫でた。男はまだ俺を見据えていた。「ほら……」母の手が両肩をつかんだ。
 俺はうつむいて、母に導かれるまま部屋を出た。廊下を玄関まで歩き、向き直って、母がしゃがんで頭を撫でた。
「ママ、あの人と大事なお話があるから」俺の身体は恐怖と興奮とで震えていた。「水面はお外に遊びに行ってらっしゃい?ね?いい子だから」母が優しく頭を撫でた。
 首をゆっくり縦に傾けると、母は笑顔を残して立ち上がった。後ろ姿がリビングに消えた。
 玄関に腰を下ろすと、ドアの横のすりガラスがぼおっと明るく光っていた。スニーカーを履き、見ると、母のハイヒールの横で、男の大きな皮靴が異様な存在感を放っていた。立ち上がり、それを蹴り飛ばそうとして躊躇すると、廊下の奥からかすかに母の声が聞こえた。
 ……ごめんなさい……


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