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完結した夏
 32(近)

「ちょっとなんなの!?勝手にひとの家に上がらないでよ!」玄関から陽子の掠れた金切り声がした。俺はベッドで寝返りを打った。「いるんだろ?」部屋のドアの向こうに男の声が近づいた。勇ましい足音が近づいた。「ちょっと!」なだれ込むようにドアが開いた。
 おやおや、たくましい商社マンの登場だ。
「こいつか?」口の周りからあごに沿って生やした髭……いや、剃っていない、と言った方が正しいか……やつれた感じだ。
「出てってよ!」陽子が男の腕を向こうに引っ張っている。だが、そのたくましさにビクともしない。「出てって!」
 男はドアノブを手に俺をじっとにらみつけている。やれやれ……合鍵を持った暴漢……しかも嫉妬に狂っている……早いとこ、俺の胸倉をつかんで気の済むまで殴り続けたらどうだ?……血を流し、腫れ上がらせて……いっそ、殺してしまうのはどうだ?
 俺は男から目を外し、タバコをくわえて火を点けた。ベッドルームの四角い窓がぼおっと白く輝き、俺の身体を覆う白いカバーがくっきりとしわを陰にしている。タバコの煙がゆっくりと光の中を立ち上り、漂い、広がって行く……何て心地いい倦怠感……ようやく足音が近づいた。
「陽子を、返してくれ」
 俺は男を見上げた。どうやら、つまらない冗談ではないらしい。俺の枕もとにしっかりと立ち、両拳を握り締め、男のその真剣な目つきは問いの答えを伺いながらも「はい」という答えしか受けつけない、そういう目だった。
 まんざらでもないのだろう、止めに入らない陽子に目をやると、慌てて取り繕うように「ちょっと……」と手を伸ばした。それはそうだろう、『お互いに相手の空気を認めていた』仲だ。
「頼む、お願いだ」男はベッドから一歩下がると床に膝をつき、両手をついて深々と土下座した。シャツの襟首から太い首が見えた。
 やれやれ……どうやら『俺』は『陽子』の『所有者』で、その『俺』を泣き落として『自分』が『陽子』の『所有者』になるつもりらしい……しかもその図式に気づきもせずに……俺はタバコを吸い込んだ。
 経験上、この類いの人種は、これから自分の心情について、それがあたかも世界を揺るがす重大事であるかのように延々と語り、挙句の果てに『生きられない』に行き着く。語られる相手には、そいつが死のうが生きようが何の意味も持たないにも関わらず。しかも、そう言いながら『死ぬ』ことができない。つまり『生きない』ことと『死ぬ』ことが別のことだと思っている。
「俺には陽子がいないと……」


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