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完結した夏
「ようちゃん、ザリガニ!」だが、陽子の後ろ姿は振り向かずにあぜ道を歩いて行った。
 ザリガニに指を挟ませたまま引き揚げようとすると、放したのか、鈍い痛みが消えた。俺はさらに深く手を差し入れ、ヌルヌルとした筒をひとしきり探った。だが、ザリガニの身体はついに指に触れなかった。諦めて手を引き抜くと、腕に二匹の赤黒いヒルが付着していた。俺は素早くそれを払い落とすと、ヒルは力なくUの字になって宙を舞い、水田に張られた水に波紋を立てて沈んで行った。
「みいちゃん」陽子が一つ先のあぜ道の十字路で立ち止まった。「だれにも、言ってないよね?」陽子がしゃがみ込み、足下の草を引き抜いた。
「……なにを?」俺はヒルの着いていた腕を擦った。「……あのことだよ……だれにも言わないって、約束したでしょ?」陽子が再び歩き出した。俺は走って追いついた。
 稲の先端には、まだ殻は青いが、大きく実った稲の穂が頭をわずかに垂れていた。歩きながら三粒ほど米をそぎ取り、殻を剥いて口にすると、干し草のような粉っぽい味がコリコリと前歯に心地好かった。
 その時「ふじしろーがおーとこーとあっちっちー、ふじしろーがおーとこーとあっちっちー……」さっきの三人組がはやし立てながら、右手の農道を通過した。陽子が両拳をきつく握った。
 あぜ道の十字路をいくつも過ぎ、小川を跳び越えて着地すると、ゆるんだ土手に四つの靴跡が残った。水田を抜けて空地に出ると、陽子が何も言わずに走り出した。俺は後を追いかけた。夏草の鋭い葉で肌を切り、苔の生えたブロック塀の細道を走り抜け、成熟したヒマワリを化粧ブロックの隙間に見ると、砂利の敷かれた駐車場に出た。四方に打ち込まれた木の杭に誰かの学校用の運動靴が干されていた。
 そこから大通りに出て、コンクリートの川に沿って路肩を歩いた。川を挟んで向こうには背の高い生け垣があって、その天辺より上では真新しい藍色の屋根瓦が光っていた。継ぎ接ぎのある古びたアスファルトの路面は所々に赤サビのような染みがあり、行き交う全ての車の窓は暑苦しそうに開かれている。陽子のヤセッポッチの脚が路側帯の白線に沿って歩き、その影がほとんど真下に落ちている。
「……ようちゃん、宿題、終わった?」陽子のやせっぽっちの両腕が、バランスを取るように軽く開いた。「まだ」陽子の上半身がバランスを失って左右に大きく揺れ、ついに白線から路肩に足を着いた。「今日も家を出るとき、お母さんとけんかした」今日は俺が誘い出したのだった。
 陸橋を上り、眼下に線路を見下ろすと、三両編成の電車が通った。電車の行く先には古びた木造の駅があり、駅より左手には、これも古びた市街地が広がっている。右手には半円形の天体望遠鏡を屋上に頂く高校があり、その周囲を住宅が取り囲んでいる。


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