LOGOS for web

完結した夏
 35(遠)

「ただいま……」ドアの形に夕日が差し込み、玄関のタイルの床に俺の影が長く落ちた。背中からヒグラシの声が流れ込み、ひっそりと静まり返った廊下の奥まで響いて行った。右手には一着もかけられていないコートかけがあり、その骨格が壁に等身大に投じられていた。
 靴を脱ぎ、リビングのドアをそっと開けると、母と男がソファーでじっと押し黙っていた。男は母から顔を背けて壁をにらみ、母は男の膝に片手を置いて視線を床に落としている。
「ただいま……」とつぶやくと、母がゆっくり目を上げた。
「もう……帰ってきたの……」
 母は物憂げに立ち上がり、ゆっくりこちらに歩いて来ると、俺の両肩に手を乗せて「水面、ちょっと……」と、そっと廊下に連れ出した。
 母に背を押されるまま廊下を歩き、階段の上り口まで来ると、肩をゆっくり振り向かされた。母の白いワンピースの腰にしわが立ち、母の顔が目の前にしゃがみ込んだ。
「ママ、大事なお話がまだ終わってないから……」母の生臭い息が鼻を突いた。「もう少し二階に上がっていて?」夕日を真横から浴びた母の顔が傾き、目鼻の陰影が際立った。「ね……」金光の差し込んだ母の黒目がガラス玉のように輝き「さ……」俺の背中を階段に押した。
 階段を上る自分の影が、前方の段に添って折れ曲がる。母は上り口で俺が上り切るのを見届けると、リビングの方に歩いて行った。俺は最上段に腰かけた。
 階段の上り口に見える廊下の床板が、その境目を曖昧にしながらまぶしく金色に輝いている。その最も明るい部分は溶鉱炉でドロドロに溶けた鉄のように流動的に輝いている。
 何これ……階下から母の声がした。……何のつもり……「いい加減にしてよ!」ドアの開く音がした。
「それじゃあ不足か!」男の怒鳴り声が廊下に響き渡った。「もっともっと金を出せ、か!ハハハ!そりゃあそうだ!そのために俺に『またがった』んだからな!」
「だから!違うって言ってるでしょ!」
「何が違う!」
「何から何まで違うわよ!」
「はん……」廊下のきしむ音がして「……何が『結婚しない?』だ……ハッ……最初からおかしいと思ってたんだ……」階段の上り口の前を男の足が通り過ぎ、すぐに母の足が続いた。
「……ねえお願い……本当に違うのよ……」布の擦れる音がした。「どう言えば分かってくれるの……」
 廊下のきしむ音がした。「じゃあ、あれは何だ?ん?……あの紙は、何だ!」「だからあれは……前の主人が借りた……」「離せ!」布のはためく音がした。
「……何が前の主人だ……」廊下がきしみ、靴音がした。「……今朝、電話で話してたことも嘘なんだろ?」「何のことよ……」「職を見つけたとかどうとか、あれはつまり俺のことなんだろ?……そうなんだろ!」
「違うわよ!」


35(遠)-2へ
BBSに感想を書く
著者へメール
寄付
back