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完結した夏
「じゃあどんな職に就いた!ああ!どんな職に就いたか言ってみろ!」
「銀行の……経理よ」
「言ってろ……」カツカツと靴音がして「待ってよ!」母の声とともに玄関の外へ遠ざかって行った。
 入れ替わり、ヒグラシの声が金色の階段を涼しく上って来た。日に焼けた砂の匂いが吹き抜け、ドロドロに溶けた鉄の輝きは、最下段のへりにまで達していた。荒々しく玄関に靴音が戻って来て、俺は気づかれないように部屋に入ろうと、そっと腰を上げた瞬間、上り口に母の目が見えた。
「……盗み聞き、したね?」
 母は寒気がするほど冷酷な目で俺をじっと見詰めた。俺は首を横に振った。「そうなんだね?」母の片足が階段に乗せられた。俺は首を横に振った。「怒らないから、正直に言いなさい?」母の膝が一段一段上って来る。俺は首を横に振った。「ママの話、聞いてたんでしょう?」白いワンピースの腿がしわを立てながら片方ずつ持ち上がり、わずかに血管を浮き上がらせた両腕が前後に揺れ、母が一段一段上って来る。俺は恐怖で後退さった。
「……どうなの?ん?」母の身体が鼻先で静止し、そしてゆっくり、俺の正面で正座した。「本当は、聞いてたんでしょう?」
 俺は目を伏せながら、ゆっくりその場に正座した。「ごめん、なさい……」
 パーン!母が強烈に頬を張った。「嘘を、ついたね?」頬を張った。「ママ、いつも言ってるでしょう?」頬を張った。「嘘をついちゃ……」頬を張った。俺の鼻腔を熱いものが伝った。「だめだ、って」頬を張った。拍子、俺の鼻から鮮血が飛び散った。鮮血は金光の中、宙を舞い、パラパラと母のワンピースに降り注いだ。
 母の頭がゆっくりとそれに傾いた。そして、しばらく自分の白いワンピースに付着した数滴の血痕を凝視した。「あんた……」母の頭がゆっくり上がり、完全に立ち上がった鋭い眉が現れ、完全に見開いた三白眼が現れ、激しくひきつった口もとが現れた。
「……何てことするの!」母は両手を上げ、俺の短い髪を非常な強さでつかみ上げると、怒り狂って立ち上がった。「どうするの、これ!」そのまま高々と引っ張り上げた。「ええ?どうしてくれるの!」引っ張り上げ、大きく揺すった。「ママの大切なものを!」床に叩き落とした。「どうしてくれるの!」伸しかかって首を絞めた。「返してよ!」覆い被さって首を絞めた。「ほら!返してよ!」首を絞めた。「返して!」首を絞めた。「返して!」首を絞めた。「返して!」首を絞める手が緩んだ。「……」頭上の母の顔が真っ赤に歪んだ。
「返してよぉ!」俺の胸にうずくまり、声を上げた。
 陰になった母の肩から金色の光の筋が何本も伸び、それは肩が震えるたびに本数を変えた。胸を締め上げる非常な声が響き渡り、合間にヒグラシは鳴き、母の熱い水が俺の首筋に止めどなく滴り落ちた。


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