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完結した夏
「……だから、ちょっとでいいから出てきてよ」文香は力なく背中を丸めたまま、瞬きもせずに一点を凝視し「いいでしょう?」キッチンの窓はぼんやり白く光っている。床に落ちた俺の影は淡く、「ねえ、みいちゃん……」ユニットバスのドアは開かれている。

「……場所は?」

 246を歩き、山手通りとの立体交差を越え、急勾配の細い階段を下りた。階段は両側を高いビルに挟まれ、そこに車のエンジン音やクラクションが無機質に反響していた。突き当たりにはBALZACに通じる赤いアスファルトの車道があり、それを越えて向こうには、ガラス張りのビルの腹が見えた。
 俺は階段の中程に腰かけた。頭上には左右のビルによって長方形に囲われた青空があり、トンボが……トンボがそこに浮いていた。
 俺はタバコに火を点けた。かすかにカツカツと靴音がビルに響き、見ると、下方遠く、陽子の姿が階段を上って来るところだった。赤いターバンを巻き、デニムのシャツを着て、腰骨を左右交互に上下させる艶っぽい歩き方で上って来る。俺は煙を吐き出した。煙はビル風に巻き込まれて素早く上昇し、上空で消えた。
「ごめんね、呼び出して」陽子の腰が隣に座った。階段の左側に張り渡されたフェンスは排ガスによって黒ずみ、その足下では色味の薄い雑草が低く生い茂っている。フェンスよりさらに左には煉瓦を模したビルの外壁があり、外壁の向こう端では螺旋階段が縦に渦巻いている。
 陽子がタバコに火を点けた。「……このあいだ、THREEにきたお客さんで写真家の人がいて」陽子の唇から吹き出した煙が細く回転しながら消え広がった。「その人、すごいいい空気漂わせてる人なんだけど」陽子の黒いサンダルの先端から鮮やかな紫色の爪が見える。「今度、私を撮らせてくれって言ってきて」俺はタバコの煙を深く吸い込んだ。「そのギャラが、また、すごいの……」正面のビルのガラスに、薄雲の棚引く空が映り込んでいる。
 俺は煙を勢いよく吐き出した。「……それで『大事なこと』は?」
 陽子の唇がタバコをくわえた。「……んん……」陽子のシャツの襟がはためき、吹き抜ける風が煙を巻き込んで目に見えた。「私……」
 ガァー!カラスの鳴き声がした。


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