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完結した夏
 37(遠)

 掃除機の音が家中に響き渡っていた。開け放たれた窓の向こうで、闇に染まった隣家の屋根が生け垣の上で静まり返っていた。俺のかかとに掃除機のノズルが当たった。
「水面、そこどいて」ノズルの向こうに母の足の指が見えた。俺はそこをどいた。
 サイドボードの上には西洋人形やダイヤル式の電話機があり、金メッキの置き時計は深夜一時を指している。天井では涙の形をしたシャンデリアのガラス玉がキラキラと七色に瞬いていて、それは一昨日母が一日中磨き続けたものだった。
 そして……今日は朝から掃除機をかけ続けている。
「どいて」俺はそこをどいた。テーブルの上にあるガラスの灰皿は、口紅のついた吸い殻であふれ……「どいて!」俺はそこをどいた……その横で、男の置き忘れたセブンスターがズタズタに引き裂かれて散らばっている。「どいて!」俺はそこをどいた。「どいて!」俺はそこをどいた。
 だが、ノズルは常に俺の方を向いていた。
 母がノズルを振り上げた。「どうして邪魔ばかりするの!」振り上げられたノズルに、一本の暖色の光の筋が映り込んだ。俺は頭を抱えた。
「あんたは!」ノズルが真っ直ぐ俺の頭に叩き下ろされた。「どうして!」目を見開いた母の顔が現れた。「いつもいつも!」叩き下ろされた。「いつもいつも!」叩き下ろされた。さらに振り上げられた瞬間、玄関でチャイムが鳴った。
 母の筋肉質な腕がノズルを振り上げたまま止まった。腕のつけ根には綺麗に剃られた脇の下があり、ウィーンという掃除機の音が辺りに高らかに響き渡っていた。
「高沢さーん!」
 玄関の方から嗄れた女の声がした。母の鋭利なあごのつけ根が声の方に向けられた。「高沢さーん!お隣りのものですけど!」チャイムが鳴った。母の髪は後頭部に束ねられ、うなじがかすかに汗ばんでいる。「高沢さーん!」女の声が苛立って、直後、チャイムが二回、鳴り響いた。
 母の尖った横顔の向こうをノズルが床に落下した。ノズルはコーンとこもった音を立てて絨毯に跳ね返り、蛇腹のホースが波打った。「高沢さん!」母の背中がドアに消え、俺はノズルについたスイッチを切った。掃除機はウーンと低くうなり、本体を小刻みに震わせて、停止した。
「何の御用ですか?」玄関から母の低い声がした。
「私、お隣に住んでいるものですけど」嗄れた女の声は苛立っていた。「お宅、今、何時だと思ってるんですか?ええ?もう一時、廻ってるんですよ?」俺はそっと顔を出し、玄関の様子を覗いてみた。


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