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完結した夏
 日が落ちて、夕闇に一粒の明星が見えた。そして俺は窓にいた。灯された外灯は空と同じ明るさで電柱にあり、ヒグラシやコオロギの声に紛れて笛や太鼓の音が遠くで響いていた。ゲタやツッカケの音が響き、何組もの親子や恋人たちが家の前を横切った。浴衣やTシャツやポロシャツや、短パンやGパンや薄手のワンピースが家の前を横切った。
「何見てるの」
 不意に、背中で母の声がした。振り向くと、暗い廊下に、さらに暗い母の影が立っていた。
「出かけるから支度しなさい?」そう言って、影が階段を下りて行った。「……あ、それと、電気は点けちゃだめよ!」
 俺は寝室のドアを開けた。畳の上には布団がなく、大きなバッグが二つあった。俺はパジャマを脱ぎ、シャツと短パンを引っ張り出した。三面鏡の鏡は開かれていて、開け放された窓からは、闇から現われつつある星空が見えた。シャツを着て、短パンに足を突っ込むと、ピンポーン……階下でチャイムが鳴り響いた。
 とっさに俺は身構えた……「ごめんくださーい」だが、それは陽子だった。
 ピンポーン……部屋を出て、廊下を走り、暗がりの階段に足を下ろすと「ごめんくださーい」上り口には母がいた。母の影は玄関から差す淡い青光の廊下に立ち、じっと俺を見上げていた。
 ピンポーン……母の影がじっと俺を見上げている……ピンポーン「ごめーんくーださーい!」……徐々に目が慣れ、母の影に顔が浮んでくる……ピンポーン……険しい目つき……ピンポーン……鋭く切れ上がった眉……「いないのかなあ……」ピンポーン……それらがじっと俺を見上げている……ピンポーン……「んー……」
 淡い青光に立つ険しい母の影の向こうで、陽子の靴音が遠のいて行った。
 母の影が見上げていた。「……何であの子がこの家を知ってるんだい?」俺の身体が強張った。「……わからない、よ……」母の影が見上げていた。「あんた、ママに隠れて、何してた?」母の影が見上げていた。「……なにも、してないよ……」母の影が手摺に手を乗せた。「き、きっと、ようちゃんのママがおしえ……」
「早く支度しなさい」母の影が上り口から消えた。
 しばらくして、家から少し離れた場所に黒いタクシーが到着した。ハザードランプが夜道を燈色に点滅させた。「トランク、開けてくださる?」車を下りた白髪の運転手が「お客さん、もうじっきに花火が上がりますのに」トランクにバッグを乗せるのを手伝った。「ご旅行ですかね?」
 夜空にはグレーの千切れ雲があり、その流れよりも遥か上方、純白の月がじっと動かなかった。


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