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完結した夏
「いえ、急用ができたものですから」母と俺は後部座席に乗り込んだ。「大変ですねえ、こんげなときに」運転手の白手袋がハンドルを右に半回転させた。
 ダッシュボードの左端では彼の顔写真が照らし出され、フロントガラスの向こうでは、民家の窓や外灯が夜道を薄暗く照らしている。
「いやほんきに、用事ってのは、こっちの都合に合わせてくれないもんですて……私もこないだね、娘の結婚式に東京まで行って来ましてさ……三十にもなっていい男の一人も連れて来ない、なぁんて家のがんと二人で嘆いてたったんですが……」
 車内が明るく照らされた。「お……」バックミラーの運転手の目が背後の空を伺った。「始まったげだ」俺は身体ごと振り返った。
 民家の屋根の少し上、夜空に色が花開いていた。
 ドン!乾いた破裂音が空気を重く震わせた。光の蛇が夜空に這い上り……ヒュゥゥゥゥ……色とりどりに破裂した。……ドン!光の蛇がまた上り……ヒュゥゥゥゥ……まぶしく瞬きながら飛び散った。……ドン!パララララ……
「水面、お行儀悪いわよ」母の手が俺の身体を引き摺り戻した。その瞬間……ヒュゥゥゥゥ……母の後頭部が色彩を浴びた。
 ドン!……ドン!
「いいがねえ、奥さん」バックミラーの運転手の目が俺に優しく微笑みかけた。「花火見ってぇもんなあ、ボク?」車内のシートや天井が明るく照らされた。俺は目を伏せた。
 ドン!隣に座る母の手が腕からブレスレットを外していた。

 しばらく夜道を走って行くと、家屋が徐々に疎らになり、家屋と家屋の隙間から夜の田園が見えてきた。家屋の間隔はさらに広がり、辺りいっぱいに田園が開け、やがて外灯すらなくなり、だが、淡い月明かりの夜道を、タクシーはなおも走り続けた。
 左右に広がる黒い稲穂の海、地平線の黒い山。夜空に黒い枝を張り出す不気味な杉林を抜け、コンクリートに固められた山肌の脇をすり抜ける。竹林を抜けて橋を渡ると、川面で月が砕けていた。母はじっと前方を見ている。運転手の背中は振り返らない。断続的に無線が入り、赤い数字がぼやけて見える。ヘッドライトが夜道を照らす。車が小さな集落に入る。
「ここで」「はい」
 タクシーは家々を燈色に点滅させながら速度を落とし「ありがとうございます」停止して、ガチャッとトランクが持ち上がった。
「えー……四千二百円です」着いたのは、数年前のお盆以来、ずっと来ていなかった母の実家だった。
 タクシーの屋根で四角い箱が光った。運転手がウィンドウ越しに白髪の頭を下げ、母がバッグを両手に会釈した。エンジン音が静かに高鳴り、テールランプが遠のいて行った。


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