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完結した夏
 地面に伏した母の姿が月光の中でゆっくりと起き上がった。起き上がった姿は身体を払い、投げ出されたバッグを拾い、ゆっくりとこちらに歩いて来た。母の上げられた髪は闇でも分かるほどボロボロに乱れ、細い腕にはバッグが提げられている。萌黄色のワンピースは月光に青く、裾から伸びるすらりとした脚が、ゆっくり交互に前後する。
 俺は母に駆け寄って、手からバッグを引き取った。「ありがとう……」母は空いた手で俺の頭を撫でると、夜空の下で力なく微笑し「そうだわ……」振り返って家の二階を指差した。
「水面、あそこがママの部屋よ……」だが、その窓の明かりは消えていた。
 公衆電話からタクシーを呼び、来た道を戻って行った。暗い車内で母はじっと道先を見やり、運転手の白手袋が何度も回った。やがて家に差しかかり、通過して、なおもタクシーは走り続けた。俺は母を見上げた。母は道先を見やったまま、じっと両目を動かさなかった。

「ありがとうございました……」タクシーを下りると、湿った潮風が吹き抜けた。母について暗がりの坂道を上って行くと、アスファルトに砂がこぼれていた。さらに歩いて行くと、堤防が砂に埋まっていた。母はなおも歩いて行った。砂丘を越え、バッグを手に、ゆっくり闇の海へと歩いて行った。
「ママ!」そして俺はそれに続いた。
「ママ……」母の手が闇の砂浜にバッグを下ろした。目の前には、ひたすら黒い空間があって、それは空なのか海なのか分からなかった。近くでは灰色の波頭が見え隠れし、足下には、黒くうごめく波打ち際の先端があった。潮騒が周囲にこだましていて、潮風がじめじめと肌寒かった。
 母の手がバッグの中身を探っていた。「ママ……なに、するの……」月光の下、母の手がバッグからスカーフを取り出した。「腕、出しなさい」スカーフが母の両手の間で細くねじれ、母のほつれ髪が潮風になびいた。「早く!」俺は腕を差し出した。
 母は俺の腕を取り、自分の腕を寄り添わせ、ねじったスカーフで二本を縛り合わせた。
「ママ……」二本の腕をきつく縛ると、母は海に歩きだした。「なにするの……」俺の腕を引っ張りながら、母の背中が黒い空間に歩きだした。「……やだよ……」すぐ向こうの足下にはハチの巣状の灰色の泡がうごめいていて、後続の波に飲み込まれてはまた広がっていた。
「……いやだぁ!」俺は両足を踏んばった。母の脚がガクンと止まった。


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