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冷やされる少女
 3

 僕はそろそろ立ち上がるべきだろうか?また、それにはどんな条件を満たしているべきだろうか?僕にはもう自分がなぜここから立ち上がらなくなったのか、いつからこうしているのか分からない。
 アンナがいつもの時刻、ちょうど夜の九時、僕の体をやっとの思いで肩にもたせ掛け、イスをきれいに拭き終えると、今度は別のタオルで僕の体を拭き始めた。そのあいだ僕の目は彼女の肩にあってそのかかとに注がれる。ギシギシと音がなりそうな感じで実に小刻みに左右にゆれている。それから今度は……今日はウィダーインゼリーだが……僕の口に流動性の食事を流し込む。
 言っておくが僕は老人ではないはずである。部屋の隅に置いてある鏡を見れば、僕が相当な若さであることは明らかだ。鏡はつねに僕に向けられているのだが、アンナのこの心遣いには感謝している。この心遣いがなければ、僕が今このように頭のなかで話をしているかどうか疑問だ。また僕は病人でもないはずである。ただ、これは少しも証明できないが。……いや、僕は少なくとも病人と言わざるをえない存在なのではないだろうか?
 話を戻そう。

 少女は薬をすっかり塗り終えると、また例によって、その場に立ち尽くした。何日かして、傷の具合がよくなると、少女は目の前にある赤いフェルト靴におそるおそる、僕とアンナの様子を伺いながら、つま先を差し込んだ。少女の痩せ細った青白いつま先が真っ赤な靴に忍び込んでいくのを僕は横目で見た。

「実際のところ、整えるヒゲの陰には整えられてしまうヒゲがあるわけで、その本来的な関係の在り方からして、まさに不平等条約を結ばれた数々の歴史的懐古に僕らはさいなまれるのです」
 サルトルに憧れる男が、目と目のあいだにセロファンテープを貼って、それで両目を離れているように見せている男が、部屋に入ってきた。この男がそもそも僕とアンナとどちらの知人なのか、もはや二人とも分からなかった。それほど彼はこの部屋に長いあいだ足しげく通っては、なにか二言三言つぶやいた後で、やってきたアンナに「いや、わたしはすぐにいかなければならないので」と言って帰るのだった。帰りぎわ、


 あの子は?あの子はどうしたんだい!


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