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行くな
 だが、問題が生じた。
 睡眠を極度に減らしてしまったため、しばしば相手のことが意識できなくなってしまったのだ。それだけならまだしも、ひどいときには、相手の顔が何か別の物体に変化し始めて、しまいには、得体の知れない、いや、実体のない渦巻きになってしまったのだ。これでは計画を変更せざるを得なかった。僕たちは睡眠時間を一時間半は確保することにした。

 一ヵ月が過ぎた。いや、正確にはどうだか分からない。恐らく、そのくらいの時間は経っていたはずだ。

 僕たちはすでに相手を意識するどころか、認識すらできなくなっていた。どこからが自分でどこからが相手か分からなくなっていた。それだけではない。僕たちは幻覚の海にいた。
 実体のないものや、あっても半透明の何やらわけの分からないものが、そこら中で泳いだり飛んだり跳ねたり、あるいはわけの分からない動きをしたりしていた。しかもそれは一定のものではなく、あるときには何かドアのような形で激しく開閉していたものが、突然その形のまま犬のように歩き回ったり、またあるときは犬であったものがぐにゃぐにゃした何の特性もない水の球みたいになり、そこから手足が伸びてきて人間になったり、とにかく分からなかった。あまりに長い無刺激の渦中で、感覚がついに暴れだしたのだ。
 僕はあまりにひどい恐怖を感じた。僕は僕をナミから分かたなければならないことを知った。半透明の森の中で、恐ろしく牙の長い虎に腕を噛み切られそうになりながら、もつれる指で二人を縛り合わせる紐を探り、何度も何度も失敗した末、ようやく離れることに成功した。

 幻覚は徐々に徐々に透明度を増して、消えた。

 ナミは目を半開きにしたまま、ぐったりとベッドに横たわっていた。やせ細った身体には、二人を縛り合わせていたロープの跡がアザになって何本も残っていた。二人の密着していた部分の皮膚が、赤くブヨブヨに膨れ上がっていた。それは僕も同じだった。
 僕はナミを抱き起こし、呼びかけたり頬を叩いたり冷たい水をかけたりして呼び戻した。ナミは驚いて、いや、喜んで涙を流し、僕に抱き着こうとして突然身体を翻して逃げ、だがまた振り返り、とにかく、どうしていいのか分からないようだった。それは当然のことだった。見ると、ベッドも床も、どこもかしこも、ゴミや糞尿や体液でひどい有様だった。これも当然のことかもしれなかった。ただ、壁の上の方にある窓だけは、夕日を浴びた金色のうろこ雲を見せていて、美しかった。

 数日後、僕とナミは再就職した。


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