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金魚
 真っ白な煙が晴れていった時、私は、自分のワンルームの部屋に戻っていた。何日眠っていないんだろう、頭が痛い。汗ばんだ手の平を広げると、人さし指の先から血が流れていた。また、声が届く……「ガラスの世界では、時間がわからなくなるだろう。1分が10時間、10時間が3日間に膨れ上がったりする。球体にはいると、何もかも忘れて、幸せな時間をすごせるが、長くい過ぎると、自分は救いようがないクズに思えて、球体なんかに入らなければと後悔する。球を恨んでも仕方がない。後悔の地獄から脱出する方法は、──眠り──以外にはない」
 いつだか、クラブで話しかけてきた男の声だと思い出した。男は話し方も、キレイな手も、私の好みだったから、明け方部屋から出て行った後、もう会うのはやめようと決めた。誰も好きになんてなりたくなかったからだ。封印した扉から、どうしてあの男の声だけ洩れてしまうんだろう。一度だけ留守番電話にメッセージが残っていた。「どんなに苦しくても、現実と向き合わなくてはいけない。拒否し続けるのは、本当に、危険だよ」私は、その男の声が大好きだった。誰かが呼んでいる……
「マユ、マユ、大丈夫?」激しく肩を揺さぶられて、私は随分長い回想をしていたんだと気付いた。ミカが目をまん丸にして、まだ私を揺さぶっている。彼女の瞳孔が、「これ以上は無理ですよー」と話しかけてきて、話し方がガードレール下のおでん屋のおやじにそっくりで、私はたまらず大声で笑い出した。
「マユ、ねぇ、マユ、どうしちゃったの?どうして笑ってるのよぅ……嫌だよ、怖いよ、しっかりしてよ、マユ一人にしないでよぅ……」泣きじゃくりながらミカは、同じ言葉を叫んでいる。「だってミカの瞳孔って、おでん屋のおやじと同じ喋り方するんだもん」ミカノドウコウハゲオヤジ笑い続けているうちに、胃がケイレンしてきて、吐き気に襲われた。ヒクヒクして、胃が痛い。ガラスの世界に行ったはずなのに、痛むなんて、有り得ない事なのに……
 吐き気がきた。口を必死に押さえて便器のフタを開け、座り込んで吐いた。オェッオェー唾液と酸っぱい胃液しか出てこない。中指を喉の奥に突っ込んでも、黄色い液体が便器のふちひへばりつくだけで、吐き気はますます強くなる。奥の奥まで中指を押し込んだ。便器のふちにかけようとした左手が、涙でかすみ、滑ってバランスを崩し、冷たいタイルの上に転がってしまった。吐かなくちゃいけない何かを吐かなくちゃいけない……私は便器につかまる。ウッウッうめく声が壁の反射で自分のものかもわからなくなってくる。何かが出た。右手を口の中からだすと、唾液に血が絡まりピンク色の液体がぬらぬら光っている。酸っぱい匂いに気が遠のいていった。


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