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イエロウ

2009年 Dorothy

 僕は夢から不快感を持ち出してきてしまったのだろうか。無意識の海から急浮上した意識が最初に知覚したのは、汗ばんだ背中に張り付いたTシャツ。
 薄く目を開けると、カーテンの隙間から差す板状の光帯の中で、微細な埃が気流に泳いでいた。乾いた目を何度か瞬くと、焦点が合わず二重になった滲んだ天井の木目が、重なったり離れたりする。空気が停滞して、時間が止まっている様だ。

 ふと違和感を感じた。

 目を瞑ってその正体を探る。痛みでも熱でもない、痒みに似た、切れかけの麻酔の中途半端な麻痺の様な気配を腹の辺りに感じて、唐突に目を見開いて起き上がりTシャツを捲り上げる。
 僕の目に入ったのは、臍の横、赤みを帯びた一本の『切れ目』。その赤い切れ目の縁はうっすら盛り上がっていて、一見ただのミミズ腫れだ。
 傷の両端の皮膚をつまむ様に、二本の指にそっと力を入れると、パカリと傷口が開けピンクの粘膜が見えた。思いの外、傷が深い事に驚いた僕は、じんわりと汗をかき始めた手が滑らない様に注意しながらそれを仔細に観察した。
 背中を折り曲げ腹に顔を近づける。首の後ろの筋肉を微かに痙攣させながら覗き込むと、奥の方に黄色の粘膜みたいな何かがちらりと小さく光を反射させた。
 (何だろう?)
 その瞬間力の入った指は薄く腫れた皮膚の表面を滑り、傷口はぴったりと閉じてしまった。

 一気に力を抜き仰向けにシーツに倒れ込む。無理な姿勢をしていたせいか、背中と首がじんじんした。
 頭が呆けて何が何だか把握出来ない。
 血も出ていない、痛みも感じられないのに、深い切れ込みが腹に入っているのだ。怪我をした覚えもない。
 夢かも知れないと願望的な考えがふっと浮かんだが、ちらりと見えた黄色い何かを思い出し、得体の知れない気分に襲われた。あれは膿か脂肪だろうか? いや違う、質感がそう云うものとは異なっている。
 僕は目を閉じて、目蓋に映る極彩色の光の動きに集中した。呼吸と共にこめかみの血管に血が送り込まれるのがはっきり判る。動悸はいやに定期的で、まるで誰かの心臓が自分の体の中で正確に機能している様な錯覚。
 もう一度のろのろと上体を起こし、先程と同じ様に傷の中身を覗き見ると、呼吸に上下する腹と一緒に内部の異物もゆっくりと動いていた。じっと見るがやはりリンパ液や脂肪等の自分の分泌物ではない。
 くるり、
 とそれが傷口の中で回転して僕は息が止まった。
 その薄い黄色で半透明な表面に小さな突起物が一定の間隔で並んでいたのだ。

 うなじの皮膚が粟立つ。首の後ろに冷たい棒を差し込まれた様な衝撃。
 どうしても目が離せないそれ等は小さな吸盤の様で、ゆっくりとなめらかに蠕動している。
 何なんだこれは!
 半分起き上がっていた様な中途半端な体勢から跳ね上がり、汗で滑る手に力を込めて傷口に指を突っ込んだ。
 指の神経にぬめぬめした感覚がはっきり感じられるのに、腹の傷口にはやんわりとした触覚しか感じられない。神経の興奮で痛みを感じない訳じゃない。兎に角不快で、気持ちが悪い。
 傷口の中で指をまさぐると、突起物の並んだ表面に触れてしまい、敏感になっている指の腹から湿った凸凹が伝わった。一気に寒気が肩を覆う。
 糞! 糞! 何なんだこれは!!
 僕は傷口を庇う事も忘れ、必死に異物を除こうと指を掻き回した。微かな痛みを感じるがそんな事はどうでも良い。
 指が弾力のあるものを掴みかけては滑り、何度目かにしっかり掴む事が出来た。僕は躊躇わずそのまま指を引き抜く。
 ずるり、
 と細長いものが僕の体液にぬらぬら濡れて腹から生えている。
 (これは、そんな、でも)
 筒状のそれは先端が細く、吸盤が並ぶ面が三分の一程を占めていて、その吸盤は先端に行く程細かく均等になっていた。

 僕は麻痺しかけた頭で必死にあるイメージを否定しようとした。それは海洋生物の一種の軟体動物の特徴的な沢山の足を連想させた。
 思考は否定だけに走り続ける間、僕の手はその『足』を握り締め、引き抜こうと力を入れる。もう僕の意思とは関係無く、血管の浮いた手は震えながら引き続ける。

 傷の内側からぷちぷちと気泡の弾ける様な小さな音が聞こえる。表皮に向かって裂ける感覚。それでも右手は痙攣したまま止めない。
 (もうよしてくれ)
 (もうやめよう)
 (やめろ!)
 (やめるな!)
 (はやくしろ!)
 沢山の誰かが僕の耳元で怒鳴っている。
 そして、スローモーションの様に目の前に飛沫が舞った。

 音も無く、
 半透明の塊が、裂けた腹から自分の手によって抜き出される。
 モノクロームの視界。
 液体の湧き出した僕のお腹。
 腕に絡みつこうとする無数の足を、
 振り払う。
 汚い物に触ってしまった時の様に
 弾力のある塊を投げ捨てると、
 びちゃっ
 と嫌な音がした。
 そして動きが失われ、
 視界に色彩が戻った。

 血やら何やらでぐちゃぐちゃになったシーツの上には小振りのレモンイエローの蛸がぐったりとうねっていた。腹の穴から変なごぽごぽ云う音が鳴る度、シーツの上の液だまりが拡がってゆく。
 僕は何だかほっとして、赤黒い液だまりの中でのたうつ生物の、その少し透けたレモンイエローがとても綺麗だと思った。