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2000年 木戸隆行
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年8月号 掲載作品
「つまりあなたは向かい合う二枚の絵画と絵画とのあいだをさまよっている画家(詩人、写真家、音楽家、何でもかまいません)にすぎないのです。やや間があって、汚れた大地が盛り上がるでしょう。その裂け目の赤い光に向かって歩くのです。ベージュのバックスキンの靴を履いて近づけば怪しまれることはありません。難なくたどり着いたいびつな裂目でひと呼吸入れ、ただちに身を投げ入れるのです」
「そんなことはできない。見違えるほど美しくなるかもしれない隣部屋の子供たちを残して行くことはできない。ゴツゴツしたガラス玉の転がる子供部屋で一瞬さした強烈な光がいつまでも目に残っているんだ、まるで目覚めた一日を支配する夢のように。その夢のなかで僕は生きているに違いない。これは夢だ、これは夢なんだ!」
「それならそのように生きて行きなさい。目覚めることのできない夢のなかで、シーツのなかを、唇を求めて体をのぼっていくような日々を送りなさい。あの人はかの宣言で示しました──

   奥さま、
   一足の
   絹の靴下は
   ありません(1)」

「どうしてなんだ……」
 俺は目をさました。半開きの窓でカーテンが揺れていた。枕もとからタバコを取り出して火をつけると、通り向かいのアパートの窓が開いた。赤毛の少女だった。俺は再びベッドに寝転び、天井に流れていく煙を眺めた。煙は窓からの風に腰を吹き飛ばされながら昇って行った。

 まるで君自身だよ!……俺のなかの誰かが言った。

 アパートの下の通りから少年たちの声が聞こえていた。俺はベッドを起き、コーヒーを入れて戻ると、もういつだったか思いだせないほど昔にジルが忘れていったストッキングのつま先が、ベッドの下からはみ出しているのに気がついた。コーヒーで一息入れ、ベッドの下に手を差し込むと、色々なものが指先に当たった。吸いかけのタバコの箱、靴下、10セント硬貨、誰のかわからないピアス、そして手紙……手紙はなんてことはない、友人からのものだった。文面には

「お前にはまんまとだまされたよ、
 まあ信じてもいなかったがな」

 と書かれてあった。
 俺はまたベッドに横たわった。通りからまだ声が聞こえている。隣部屋の少年だろうか?聞き慣れた声が「Moi,Si.Moi, Si」と繰り返している。なにが「Moi,Si」なのだろう?ベッドから窓辺へ起きようとすると、枕もとで電話が鳴った。友人のG……からだった。
「シュウか?今プリントしたんだけどさ、すげーいいのが仕上がったんだよ。お前今日ヒマか?もう見せたくてうずうずしてんだよ」
「そうだな、これからリーリーと約束してるから……5時からだったら空いてるよ」
「5時?!……まあいいよ、じゃ、その時間にギグルでな」
「ああ」そう言って電話を切った。
 通りでは、少年の声がまだ繰り返していた。「Moi,Si.Moi,Si」窓辺に行って見下ろすと、やはり隣部屋の少年だった。石畳の路面の上で、他の少年と立っていた。俺は窓枠に足をかけた。

「No!!!」

 声がして、見ると、通り向かいの少女が俺を見ていた。少女はあどけない顔をうろたえた様子でいっぱいにして、部屋に振り向いたかと思うと「Maam!」と叫びながら消えて行った。通りでは、3人の少年たちが俺を見上げていた。やはりうろたえた表情だった。俺はそのまま飛び立った。体が完全に宙に浮いた。直後、隣部屋の少年の透き通る栗毛色の髪が、青白く、常に不安に満ちている美しい表情が、一気に視界に迫った。と、不意に、まっ赤なベルベットのカーテンが宙に現れ、俺の体を包み込んだ。ベルベットの分厚くきめ細やかな毛足が、俺の肌をいたわるように、なでるように、まるでミイラを包むように、やさしく包んだ。そして井戸を覗き下ろすときに見える、あのまっ暗闇のなかの何かがささやく。

 ほら、私の言ったとおりじゃないですか……

 何体ものモニュメントがじりじりと迫ってくる。じりじりと俺を取り囲む。そしてすっかり取り囲んでしまうと、それらは一斉に外側に向かって倒れながら、頭上の丸く空いた空を押し広げて行く。頭上の、雲一つない空を押し広げる。そして俺はつぶやく。

「ああまただ、空しかない」

 確かにそこには、素朴な色の青空が、ただただ広がっているのみだった。



※本文中の(1)部分は、岩波文庫、A・ブルトン著・巌谷國士訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』から引用した。