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面、線

2005年 木戸隆行
 あなたの頭の中をかきまわしましょう、あなたの頭の中を絶え間ないイメージでかきまわしましょう──でもそれを楽しめるほど、世界は暇ではないのだ。いや、それを楽しめる土壌をまず作る必要がある、と言った方が良いか。難解な語彙ではなくごく単純な、言葉がそのままイメージであるような単純な言葉がこの場合ふさわしい。リズムを韻を重視してあえて使用することも他方では良い。
 これは自慢だが、小さい頃、正確には小中学校の頃、僕は美術の時間にはどの学年でもまっさきに教師に目をつけられた。教師たちは描きかけの僕の写生画を見ると突然目の色を変え、当の僕を差し置いてやれ屋根瓦に光を置けだの木の葉の中に見えもしない気違いじみた黄色の点を置けだの言いながら、僕の筆を取って自分が描かんばかりに身を乗り出していた。真摯な指導のためだろうか、その目は変質者のように執拗で、油絵の時間などはナイフで刺し殺されるかと恐怖したこともある。公募で文部省から賞をもらったのも客観的な理由としてはあるかもしれない。
 だが、僕は自分には絵の才能のないことを悟っていた。というのも、僕は写生しかできなかったからだ。つまり僕は「見たそのもの」しか描けなかった。写真のように描くことはできても、ピカソとかマティスとか、抽象的なものは一切描けなかったし、描けるなどとも思えなかった。
 僕は間違っても芸術的でない絵を欲しがることはないし、描きたいとも思わない。だから僕は美術の時間が無駄な時間に思えて仕方がなかったし、そのためにただただ面倒なだけの作業だった。でも教えてもらえたことには感謝している。おかげで自分に絵の才能のないことが分かったのだ。
 だが彼らにこのことを伝えたらひどくがっかりはしないだろうか?彼らの貴重な時間(=生命そのもの)が僕というなんてことのない少年の才能のないことを自覚させるために費やされたのだとしたら、彼らは絶望の岸壁から深夜の海原を見下ろしたりしないだろうか?
 誤解を恐れずに言うが、単なる写実は技術ではあっても芸術ではない(技術なき芸術もまたないが)。要素と要素との、絵で言えば線と面とそれらの意味との無尽蔵のねじれの運動こそが芸術なのだ。線は面を規定し、意味をなしたかと思えば突然すべてを放棄する。
 いや──面でない線など、そもそも存在しただろうか?